⚫︎『失われた時を求めて』にかんしては、第一篇の「スワン家のほうへ」すら最後まで読めていないので、何かを言う資格などないのだけど、それでも、有名なその書き出し部分はとても面白く、書き出しのところだけ何度もぐるぐる読んでしまって先に進めないという感じすらある。
(一応、井上究一郎・訳のちくま文庫版は10冊すべて持ってはいて、間をつまみ食い的にちょこちょこ読んでいたりはする。)
長い間にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどすると、もう眠らなくてはならない時間だという考えに目がさめるのであった、私はまだ手にもったつもりでいる本を置こうとし、あかりを吹きけそうとした、ちらと眠ったあいだも、さっき読んだことが頭のなかをめぐりつづけていた、しかしそのめぐりかたはすこし特殊な方向にまがってしまって、私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになってしまったように思われるのであった。そうした気持ちは、目がさめて、なお数秒のあいだ残っていて、べつに私の理性と衝突するわけではなく、何かうろこのように目にかぶさって、すでにろうそく台の火が消えていることに気づかせないのであった。
まず、自分が「教会」とか「四重奏曲」とか「抗争」とかになってしまうというのもかなり変なのだが、何よりこの部分が好きなのは、ろうそくを消した途端に眠ってしまっているにもかかわらず、《もう眠らなくてはならない時間だという考えに目がさめ》るという、なんというのか「逆説的な時間」において、すでに手にもっていない《まだ手にもったつもりでいる本を置こうと》し、すでに消している《あかりを吹きけそうと》する、というところだ。
この、決して行為に至ることのない「未然の行為」は、現実でも夢でもない、そのあいだにある存在しない次元で、行われようとして、しかし決して行われない。ただ「行おうとする志向性」だけがあり、しかしそれが行われ得る「場」がそもそも存在しない。このような、現実だろうと夢だろうと虚構だろうと、「この世界」の内部には決して書き込まれる場所を持たない、そして決して行われることなく「未然」のままでしかあり得ない、行為たり得ることのないままであるしかない「(未)行為」に、この文章は居場所を与えている。
おそらく、こういうもの(永遠に未然であるしかない行為)に居場所を与えることは言葉(言語表現)にしかできないように思う。
⚫︎たとえば埴谷雄高は、この宇宙そのものが壮大な誤謬であって、この宇宙に存在するものはすべて間違っていて、正しいのは、未だ存在せず、そしてこの後も決して存在することのない「未出現」のものだけであり、その未出現の宇宙とは、ただ「夢」を通じてかろうじてアクセスすることができるだけだ、といい、そういうことをなんとか小説で書きたい、ということを、生前にNHKの番組のインタビューに答えていて(この発言はどことなくメイヤスーを想起させるのだが)、ぼくはそれをYouTubeで観て、とても面白いと思って(高校生の時に読みかけでそれ以来放置してあった)『死霊』を改めて読み返してみたのだけど、小説はそこまで面白くはなくて、またも途中でやめててしまった。ぼくは埴谷雄高の発言を、自分の関心に方に強引に惹きつけて聞いてしまったのだと思うが、ぼくが勝手に埴谷雄高の発言から期待してしまったものを、少なくともそれを実現させるために必要な「場」を、プルーストのこの書き出しは、なんということもなく、ふっと開いてしまっているように思える。