2025-03-28

⚫︎ミステリにおいては、途中の段階では、さまざまな謎があり、謎に対する多様な解釈(結果的には「間違い」ということにされる、叩き台的な複数の推理)があるが、それらは最終的には「唯一の真実」に収斂される。

だがこれは、テキストのあり得る多様な「読み」が、特権的、中央集権的な「唯一の真実」によって抑圧されるということとは、少し違う。

唯一の真実の提示は、世界を一義化するのではなく、「表(謎) / 裏(秘密)」という世界の二面性化、あるいは「表層(現象・事件) / 深層(本質・真相)という「深さ」のイリュージョン(遠近法)をもたらす(真相は「裏」あるいは「奥」に隠されている)。

複数の解釈(複数の決定的ではない推理)という平面的並立状態を抑制し、それらを統べる「唯一の真相」が成立することで遠近法が成立し、表に対する裏、表面に対する奥行き(深さ)が作り出される。

この、二面性と奥行きの作る魅惑こそが、ミステリを支えているように思う。

(これはいくらなんでも乱暴に単純化し過ぎているだろう。どのような裏を、どのようにして作り出すか、どのような奥を、どのようにして作り出すか、という、いわばトポロジー的な構築が、個別の作品の固有性を、それぞれ個々に生み出しているだろう。)

だから、このような「唯一の真相」に抗するように見えるポストモダン的な多義性とは、唯一性(一義性)に対する多義性であるより、奥行き(遠近法)を拒否することによって結果的に生まれる並立性と考えるのが良いのではないか。多義性の確保よりもずっと、遠近法(裏側・奥行き)の相対化のほうが重要なのだ。

とはいえ、たんに奥行きを否定するだけでは、のっぺりとした退屈で平板な世界が広がるばかりだ(多くの退屈なポストモダン的な作品群…)。

⚫︎たとえば一つの例として、その並立的で平面的な多義性が、並行世界的(様相理論的)な多世界性へと発展することで、遠近法的な深さとは別種の「浅い奥行き」としての深さが生まれる。このような「別様な奥行きのあり方」を作り出そうとすることこそが重要なのだ。

ただ、小説的、あるいはフィクション的な並行世界性が、様相理論的な並行世界性と異なるのは、フィクション的世界は稠密でも充実しているのでもなく、隙間だらけ、穴だらけで、スカスカであるということだろう。

フィクション的世界は、あらゆる可能性を汲み尽くす(数え尽くす)ことなく、明示的に描かれていないところは、ふわっとぼんやりした背景のまま、あるいはまったくの空隙のままで放置され、(底が抜けたままで)残されている(セザンヌのキャンバスが絵の具で塗り込められてはいないように、あるいは、あらゆるフィクションに「フレームの外」があるように)。だから、フィクション的世界は、(並行世界「的」ではあっても)厳密に様相理論的な意味での並行世界ではない。

フィクションでは、その空隙こそが仕事をする、のではないか。それは、内にはあるが「外」であるものであり、同時に、外にはあるが「内」になり得るものでもある。

内部の外部であることと、外部の内部であることとは、意味がまったく異なるが、その、異なる意味の両価性を併せ持つことによって、フィクションにおける「空隙」は作動する。空隙は作品の内部でもあるが、外部でもあるので、その働きは、作者によっても、作品そのものによっても、また読者によっても、制御できない。