2025-07-04

⚫︎『現在地』(岡田利規)。2014年に出された戯曲集。以前、読んだときに強いインパクトを受けたが、感想は書けなかった。今回も強いインパクトを受けた。今回もちゃんと感想が書けるかどうかはわからない。

三つの戯曲、「わたしたちは無傷な別人である」「現在地」「地面と床」が収録されている。あとがきに、「なにかあからさまなものをつくりたかった」と書かれている。一つめの戯曲は2009年の民主党への政権交代を、二つめと三つめの戯曲は2011年の東日本大震災を「あからさまな」な参照元としている。とはいえ、それらの事件を直接的な題材としているわけではない。しかし、そう言われると、いかにも「あからさま」にそれらを反映した(それらの出来事があった社会に生きていることの影響をあからさまに受けている)「内容」を持っていることはわかる。

どれも、シンプルに主に「内容」を伝えるような戯曲だが、一つにつき一つは表現形式上の工夫がなされている。一つめの戯曲では、虚構の時間と現実的な時間の強制的な一致が、二つめは、自らの「(虚構的)内容」を自らの内側に形式的に巻き込んでいくような劇中劇の構造が、三つめは、あらかじめ「日本語話者」ではない観客を想定した、日本語のセリフと外国語の字幕との時間のズレを劇構造に組み込んでいること(外国で上演されることがあらかじめ繰り込まれた「日本語」の戯曲であること)が、仕掛けられる。

一つめと三つめの戯曲は、強く「能」を感じさせる。

一つめの戯曲は驚くほどにシンプルだ。経済的にも恵まれた幸福な夫婦がおり、(政権交代が実現する衆議院議員選挙の前日に)そのマンションの部屋に、妻の職場の後輩女性が遊びに来る。そしてその日に妻のもとに、「お前たちの幸福の周辺には自分のような不幸な者が存在するのだということを認識していろ」と、自己の存在を顕示する「不幸の幽霊」のような男が出現する。ただそれだけ。男=幽霊は、自己の存在をただ顕示するだけでそれ以上ことは何もしない。妻にも、その存在に怯えるという以上のリアクションは何もない。しかし、この、ただ自分の存在を主張するだけの幽霊の存在(顕在)のさせ方に、とても強いインパクトをぼくは受けた。

(幽霊の存在を直接見るのは妻だけだが、夫が、バス停でなぜかわからないが異様にムカつく男に遭遇したり、職場の後輩女性が、自分と同い年の無差別殺人者のことを電車の中で想起したりと、直接的ではないが「何か」には触れている。しかしそれが自分の現状を揺るがすとまでは感じていない。)

二つめの戯曲は、(あからさまに「日本」を想起させる)共同体=村に住む、7人の若い女性たちそれぞれの、考え方や立ち位置の違い(そこから導かれる「社会的な行動」の隔たり)が、かなり明確に図式化された形で示される。三つの戯曲の中では最も物語性が高く(かつ、象徴性も高く)、殺人が起きたり、ちょっとしたオチのようなものもあるが、それでも、会話を通じて示される各々の人物たちの関係性の推移によって、考え方や立ち位置の違いが最小限の手数で淡々とわかりやすく示されるのみだ。そして、それぞれの人物の「違い」は、意識的に選択されたものであるというより、各々の「資質」と「置かれた位置」によってほぼ自動的に決定されるかのように書かれている。

(考えや立ち位置の「違い」は図式的なものだが、その「違い」を表現する細部は非常に繊細に描き分けられていて、作家の優れた資質を充分に感じさせるものがある。)

三つめの戯曲は、一つめと二つめの要素を合わせたような感じ。登場するのは、夫婦と、その夫の弟、そして、かつて夫婦が「救おう」としたが失敗してしまった(社会的関係性の外へ脱落してしまった)若い女性(この女性の存在は、一つめの戯曲の「不幸の幽霊」に近いが、より饒舌に「自己」を主張する)、そして、兄弟(夫と弟)の「母の幽霊」。

夫はおそらく、経済的に安定し、リベラルな考えを持っているようだ。対して、無職である弟は、兄夫婦への強いコンプレックスを持ち、そのコンプレックスを「愛国的なものへの貢献」によって埋めようとしている。そして、母の幽霊は、母国・母語・家族の記憶など、弟とはまた別種の「愛国」を象徴するような存在。このような図式自体は「典型」以上のものではないだろう。

ここでも一つめと同様に、妻のみが、母の幽霊の存在を感じ、救えなかった女性の独白を聞き、弟のルサンチマンを直接に受け止める(リベラルな夫はそのすべてを感じておらず、のほほんとしている)。つまり、他者の「存在・必然」を感じている。ただ妻は、それらの存在を怖がっているだけでなく、胎内の子供のために(夫も含めた)「この国」を丸ごと捨ててもよいと決意しており、それら他者の存在をある程度相対的に受け止めることができている。

(このことは、この戯曲が観客として「外国語の話者」をあらかじめ想定していることと関係があるだろう。三つめの戯曲では、社会的に救われなかった孤立する女性が早口で捲し立てる日本語のセリフと、それを翻訳する字幕との時間的なズレが強調され、それによって「日本語」が誰にも理解されなくなったマイナーな言語として扱われる。)

(つまり、一つめの戯曲ではダイレクトな「他者の顕現」そのものであった出来事が、ここではある程度構造化されたものとして現れている。)

とはいえ、ここで「国を捨てる」妻の態度が特に未来へ向けた肯定的なものとして示されているのではない。すべての立場は、そうであるならそうとしてあるしかないという必然性を持ち、だからこそどれもが絶対ではなく相対的なものとされ、横並びに並置される。

⚫︎一つめの戯曲が「他者の顕現」の現場そのものの描出であり、二つめの戯曲の「関係・社会」は「寓話・神話」の範疇にあり、三つめの戯曲では他者が顕現する「環境・構造」が掴まれる、と言えるのか。この三つの戯曲(の推移)によって示されるのは、我々が社会的・政治的であるしかないということであり、しかし同時に、社会的・政治的なものは決して絶対的なものではあり得ないということではないかと思う。つまり、社会的・政治的でもなく、非社会的・非政治的でもなく、社会的・政治的であるしかないとしても、そこへと至る一歩手前に(あくまで権利として)想定することができるものとして、前社会的・前政治的状態を捉えようとしているのではないか。

「わたし(の萌芽)」が、ある資質としてあり、ある位置として与えられてあるとすると、そこから必然的に(あるいは「強制的」に)、ある社会的・政治的な位置付けが与えられる。しかしだとしても、それ以前の「私の原器」としての「資質」であり「位置」である状態が依然として「ある」のだと想定できる。社会的・政治的へ至らざるを得ない根を持つとしても、未だそこに至っていない地点・状態がある、と。そしてそれは、前社会的わたしから社会的わたしへ推移するのではなく、その両者が同時的に重なってある、と考えられる。社会化され政治化された「わたし=関係」について考えるとき、未だ確定された「関係・自己限定・権力化」へと至る前の、その萌芽状態としてのわたしが同時にある。そのような重なりとしての「地点・状態」をフィクションとしてなんとかして確保しようしていのではないか。

(うーん、ちょっと苦しいか…、というか、整理しきれていないか。)