2025-07-13

⚫︎コーリン・ロウとロバート・スラツキイは「透明性 虚と実」において、ル・コルビュジエの「ガルシュの家(VILLA STEIN DE MONZIE)」を取り上げて「実の透明性/虚の透明性」という概念について説明する。ここで元になる「透明性」という概念については、ジョージ・ケペシュ「視覚の言語」による説明をそのまま採用している。

《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性を想定しなければならない。像には透明性が附与されるのである。すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。》

ここで言われているのはあくまで「視覚」の問題だが、ロウ+スラツキイは「建築」を例に挙げることで、視覚という感覚にとどまらない身体的な経験として「透明性」を考えている。

近代建築の技術的な革命によって「壁」で構造を支える必要がなくなり、窓の面積を大きくとったり、ガラスなどの透明な素材を壁や間仕切りとして大胆に使えるようになる。それで字義通りに、透明な素材によって像の多重性を作り出すようなあり方を、まんま「実の透明性」と言う。実例としては、グロピウスによるバウハウス工芸等など。それに対して、透明な素材で字義通りに透明化するのではない、不透明な素材を用いて作られる「別の透明性」をもつ建築がある、と。

⚫︎下の画像は「ガルシュの家」の模型だ。この家=建築物は、外から眺められる時、内部空間の分節にかんして「横方向に広がる面=層の重なり(奥行き)」として構成されていることを予測(予感)させる。外観のあり方が内部をそのように予測させるのだ。

(画像は https://www.galerie-taisei.jp/archives/references.htmlよりお借りして、加工した。)

しかし、実際に内部に入ってみると、予想に反して、空間は主に縦方向に分節されていることがわかる(下図)。この時に、事前に予期された空間と実際の空間経験との「食い違い」が生まれる。そこで、この食い違いを解消しようとして(空間を経験する者の感覚=経験のなかで)生じる双方の空間の「相互貫入」、そして、その相互貫入を可能にする(相互換入のために要請される)基底空間としての「高次元空間」が(知覚・感覚として)成立すること、そのような高次元空間による経験を「虚の透明性」と言っている。だが、そもそもこのような高次元空間は、カント的な経験の条件(感性の形式)を超えてしまっている。

(画像は https://www.youtube.com/watch?v=11dQA216BG4&t=336s よりスクショして、加工した。)

1.外観から予測(予感)された空間分節

2.実際に経験される内部の空間分節

3.(1)と(2)とのコンフリクト

ル・コルビュジエの場合、このような高次元空間(虚の透明性)の成立は、単に視覚的な出来事ではなく、身体を用い、時間を伴った、身体の移動=回遊によって、時間的経験の中で実現する。移動・時間によって、空間経験を変容させ、その空間の内部にある身体経験をも変容させる。これについて、建築空間が、移動する身体と時間の中で展開していく、という言い方をコルビュジエはする。西沢立衛は、このような「移動する身体と時間」によって立ち上がる空間を「時空間」と呼んでいる。

下の動画は、CGによる、回遊の感覚の再現。

・VILLA STEIN-DE-MONZIE

https://www.youtube.com/watch?v=998fOnj2l7M

⚫︎これに対し、アトリエニシカタ(小野弘人+西尾玲子)は、展開(時空間)としてではなく、今・ここでの(空間の、つまり身体の)「分裂」として生じる「虚の透明性」の経験を、例えばルイス・カーンの建築の中に見ている。

ルイス・カーンの「キンベル美術館」は、外観としては、幾つも連なるカモボコ状の屋根のアーチによって特徴づけられる。この外観上の特徴は、内部においても維持・共有され、それは天井の形として反復的に現れている。しかし、このようなカマボコ型のアーチ天井によって生じる、幅が狭く縦に長い空間分節とは食い違う、横方向・水平方向にフラットに気持ちよくひろがる空間が、同時に成立しているのだ。

いわば、肩から上のあたりを支配する、幅が狭く縦に長い空間と、肩から下のあたりを支配する、特定の方向性を持たずにフラットに水平方向に広がる空間の食い違いが生じて、その食い違いに「このわたしの身体」が晒される。相互貫入する異なる二つの空間分節に晒された「この身体」は、空間経験のみでなく身体図式・感覚の分裂を強いられ、その分裂により、普段の「無自覚にそうであった身体」とは異なる形での再統合が要請される、と。

(画像は https://www.youtube.com/watch?v=yKzI7CgnYXs よりスクショして、加工した。)

実写は以下の動画で。

・La luz tangible del Museo Kimbell

https://www.youtube.com/watch?v=XUrQz-G9CjE

⚫︎柄沢祐輔は、現代の建築の中に見られるこれとはまた別の「身体(空間)の分裂」を指摘し、それを「虚の不透明性」と名付ける。柄沢は「虚の不透明性」を《視覚の一望性の後に身体の局所性が到来する空間》という言葉で説明する。

db.10plus1.jp

「視覚の一望性」とは、全体の構造や、隅々の詳細までを、たやすく把握することができる構造になっているということだ。しかしその一方で同時に、「このわたしの身体」は、その中の非常に限られた局所に強く拘束されている、ということが自覚される。手を伸ばせずすぐ届くような「そこ」へと移動するために、予想外の行程や労力を必要とする。そのような空間的な特徴が、現在の優れた建築には共通して見られる、と。

(このような空間のあり方を、上と同様に図で示すのは難しい。このような空間の性質を最も端的に示しているのは、何よりも柄沢自身によって設計された「S-house」であろう。)

潜在的な視線のネットワーク/ s-house (設計・柄沢祐輔)について|furuyatoshihiro

小鷹研理は「幽体離脱」について次のように説明する(HMD空間における三人称定位」)。《通常では同じ空間を共有している「視点」と「身体」が空間的に分離した状態にありながら、こちら側に定位している「視点」も、あちら側で俯瞰されている「身体」も、同時に「自分」に属している》と感じられる。だとすれば「虚の不透明性」とはまさに幽体離脱的な経験であると言える。ただしそれは、「視点」と「身体」の分離という点においてだ。幽体離脱では、視点が「こちら」で身体は「あちら」に位置するが、「虚の不透明性」的な経験においては、視点も身体もどちらも「こちら」として経験されるだろう。幽体離脱では、身体から分離した「視点」が「わたしの身体」を見ている(見させられている)。一方、虚の不透明性では、「視点」も「わたしの身体」も、建築空間(世界)を見て(経験して)いる。

(ただし、「虚の不透明性」を持つ空間を経験するうちに、「こちら」としての「このわたしの身体」から剥落した、「あちら」としての「このわたしの幽霊的身体」たちが、多数生み出されるということはあるだろう。)

「虚の不透明性」による「視点=認識」と「身体=行為」の乖離は、たくさんのこと(上位レベル)を知ることができるのに少しのこと(下位レベル)しかすることができないというネガティブな乖離ではない(それだと、泣いているわたしを背後からクールに眺めているもう一人のわたし、みたいな、近代的な自我モデルになってしまう)。むしろ逆で、メタレベルの認識を持っているにもかかわらず、オブジェクトレベルでの行為をリアルに生きることができる、という、異なる階層の両義的・並立的な相互貫入としての生、として「虚の不透明性」を考えられる。

わたしは、スマホの中に世界中の地図とそこにピンでとめられた自分の位置情報を持っていて目的地までの経路を探すことができるが、にもかかわらず、足元のちょっとした段差に気付かずに転んでしまうことができる。あるいはわたしは、スマホで見られるローカルな雨雲レーダーの情報を駆使して、通り雨を避けながら移動することができるが、にもかかわらず、目の前にある水溜まりを見逃して靴や靴下を台無しにしてしまうこともできる。階層構造の階層が潰れて、メタレベルもオブジェクトレベルも、どちらもフラットな「このわたしの経験」となる。

それはまた、今ここにいる「(他ならぬ)このわたし」が、潜在的な「(そうであり得た)別のわたし」たちと共に、その両者(多者)を同時に生きることができるかもしれないという可能性でもある。

⚫︎様々なレベルで生じる「時空間=感覚」の食い違い。食い違いによって起こる身体の分裂。そして、身体の分裂によって要請される「相互貫入」を可能とするより高次の基底空間の開示。そのような基底空間の成立によって初めて可能になる経験・身体図式。「透明性」とはつまり、そこで新たに生まれる経験・身体図式のことを言う。

⚫︎レマン湖畔にあるコルビュジエの「小さな家」の、後からつけ加えられた宙に浮く独房のような閉ざされた半二階の部屋で、無理やりに設えられた椅子に窮屈な姿勢で座って、空しか見えない小さな窓から空を眺めながら、つい先ほどの、湖に開かれた天井のない「緑の部屋」で、南から射す光のもとで犬と遊んでいた感触を思い出す。その時「わたし」は、閉ざされた部屋に一人でいるのと同時に、開かれた前庭で日の光と犬と共に戯れている。その、二つの空間、二つの経験、二つの身体は、同時に、今。ここにある。しかし本当に、この空間の外に湖などあるのかどうかさえわからない。わたしが、かつて一度でも犬と戯れたことがあったというのは本当にあったことなのか。それらはすべて現実的な根拠のない空想で、今・ここにあるこの部屋さえも、夢の中の出来事であるかもしれない。それでも「わたし」は、今ここにいるのだし、同時に、湖のほとりで犬と触れ合っている。

(画像は、https://www.youtube.com/watch?v=C_79me5yM2s よりスクショした。)