2025-08-11

⚫︎ハーマンにおいて、「幽霊」や「死後」という概念はどのように考えられるのだうか。オブジェクトが存続する限り、あらゆる状況や関係に還元されることのない、それ自体として自律した内的な何かが存続し、そのようなオブジェクトの存続によってこそ時間が生成されるのだとして、では、そのオブジェクトが崩壊してしまえば、自律した内的な何かもまた崩壊し、後には何も残さないということになるのか。

ハーマンにおいては「比喩」というものがすでに幽霊的であるとは言える。作品の鑑賞者(「比喩」を受け取る者)が、比喩という特異な感覚的性質を真に受け、その感覚的性質から退隠していくリアルオブジェクトの様を(「リアルオブジェクトの様を」ではなく、「感覚的性質を」か)、同じくリアルオブジェクトとしての鑑賞者が自身の存在において肩代わりして真摯に「演じる」ことによって、「作品(比喩)」+「鑑賞者」による「複合的オブジェクト」が生成される(故に、あらゆる芸術は演劇的である、とされる)。芸術(美的経験)は、この複合的オブジェクトの生成によって、そのオブジェクトの内部で生じるものであり、このような複合的オブジェクトが「芸術の細胞(cell)」と呼ばれる。

(「2H₂ + O₂ → 2H₂O」を比喩として、水素が作品、酸素が鑑賞者だとする場合、その結果として生じる「複合的オブジェクト」としての「水(芸術)」は、構成要素である水素・作品、酸素・鑑賞者の性質に還元されない、それ独自の「質」を持つものとなる。酸素は火を燃やすが、水は火を消す。 

このとき、複合的オブジェクト(芸術の細胞)の一部分(構成要素)となった「鑑賞者」は、比喩という幽霊を自身にプロジェクションされた、山本浩貴的な意味での「投影者」となる(とはいえここで鑑賞者に投影されるのは、必ずしも「死」というわけではないが)。

そもそも、感覚的性質・感覚的オブジェクトというものが、実在的オブジェクトの幽霊のようなものでしかないが、通常の感覚的性質は、いわば正式の、常識的な感覚的性質であるのに対し、比喩とは、非公式の、ねじれた、特異な感覚的性質であり、その特異性によって鑑賞者を巻き込み、自身の存在を賭けて「演じる」ことを促す(強いる)。比喩が、非公式で特異であるということは、その先(その深層)に必ずしも実在的オブジェクトが控えているとは限らず、いわば「偽」の感覚的性質であるかも知れないということか。いやしかし、ハーマンはどこかで、実在的オブジェクトという根拠を欠いた感覚的性質は存在しないということを書いていたような気がする。

ならば、実在的オブジェクトの「組み尽くせなさ」が、比喩という、非公式的で、ねじれた、特異な感覚的性質が生まれる根拠となる(新たな、予想外の比喩が生まれる「余地」を常に保証する)、ということだろうか。そうであるからこそ、比喩は、実在の「組み尽くせなさ」の一端を表現することができる、と。

そうであるならやはり、かつて実在したが、今は実在しないものについては、何もいえないということになるのだろうか。

(遺物や呪物といった「媒介物」についてならば、考えることができるのだろう。だがそもそも、実在を示す感覚的性質・感覚的オブジェクトがすでに媒介的であるのだから、それらは、媒介の媒介ということになるのか。一重媒介と多重媒介の違いに意味はあるのか。)

⚫︎追記。美学的経験が、鑑賞者自身が比喩を「演じる」ことによって生じるということについて、ハーマンは『建築とオブジェクト』の第4章「建築の美学的中心性」で、次のように説明している。要約はGemini 2.5 proによる。

 

美学的経験は、この文字通りの主義を根底から破壊する。ハーマンは、酸素についての詩を例に挙げる。その詩は「酸素は(中略)地球のすべての木々によって養われる」と歌う。これは科学的に文字通りの記述ではない。美学的な感性を持つ者なら誰も、この詩句を「酸素は植物の活動によって増加する」などと陳腐に言い換えることはしないだろう。

では、この詩の中で何が起きているのか?

  1. オブジェクトと性質の亀裂: 「養われる」という性質は、我々が知っている文字通りの(=感覚的な)酸素オブジェクトには属さない。あまりにも馴染みのないこの性質が付与されることで、感覚的オブジェクトとしての酸素と、その奇妙な性質との間に深い「亀裂」が生じる。
  2. 実在的オブジェクトの喚起: この亀裂は、我々の意識を、文字通りの知識の対象である感覚的オブジェクトを超えた、謎めいた「実在的オブジェクト」としての酸素へと向けさせる。それは、「養われる」ことがありうるような、我々の把握を超えた深遠な酸素である。
  3. ミメーシスの逆転――観照者による上演: しかし、定義上、実在的オブジェクトは我々のアクセスから退隠している。では、この「養われる」という感覚的性質は、一体何に属するのか? 感覚的酸素オブジェクトには属し得ず、実在的酸素オブジェクトはアクセス不可能である。残された唯一の選択肢は、経験の「細胞」の内部に存在する唯一の実在的オブジェクト、すなわち観照者自身である。

結論として、美学的経験とは、観照者自身が、退隠してしまった実在的オブジェクトの代わりに、その残された感覚的性質を、自らの内部で非文字通りに「演じる(enact)」ことなのである。これは、芸術家が対象を模倣するというプラトン以来のミメーシス概念の完全な逆転である。芸術の核心は、芸術家による模倣ではなく、観照者による上演にある。これこそが、美学的経験が単なる中立的な知識の獲得ではなく、我々の存在全体を巻き込む爆発的な出来事である理由である。