2025-08-13

⚫︎吉本隆明の「中上健次私論」という講演の記録が残っている。例のほぼ日のアーカイブだ。

www.1101.com

ここで吉本隆明は、常識的な中上健次の読まれ方とは大きく違うことを一つ言っている。多くの人は中上を「アジア的段階」に資質(可能性)を持つ作家だと思っているが、そうではなく、彼は「アフリカ的段階」に強い親和性を持つ作家なのだ、と。吉本は、多くのインテリたちによって導かれたこのような(「アジア的段階」的な作家であるという)誤解が、《中上さんをずいぶんだめにした》とまで言っている。

(「アジア的段階」とは、マルクスによる生産様式の発展段階の、アジア的→古代的→封建的→資本主義的、からくる、人類初期の生産様式として考えられた状態。専制的な支配者(王)が土地を所有し、農民を支配する形態。「アフリカ的段階」とは、マルクスの考えは十分でなく「アジア的段階」以前の状態を考えるべきだとする吉本によって作られた概念。)

まず吉本は、中上については三つの作品(「一番はじめの出来事」「十九歳の地図」「岬」)について考えればよく、そこには《二つの足》があるという。

「十九歳の地図」についてはつぎのように言われる。

《これは熊野吉野でなくてもいいわけですが、どこか地方の草深いところの青年が東京の大学へ入ろうと思って東京へ出てくる。そして、東京で予備校に通って予備校生生活をする。予備校生生活をするのですが、生活していくうちに大学へ入ることがあまりピンとこなくなってしまう。》

《中上さんも、この作品を除いたら、あとは一種、善の作品です。どんな悪ぶっても善の作品だということになりますが、この作品はちょっと異様なというか、一歩踏み越えればやってしまう。何者ともわからない目の、生活にふてくされた青年が意味もなく殺人をやってしまう。そういうところで殺人を実行してしまう。想像力では、もうやってしまっている。そこへ実際に、現実に踏み込まないだけでやってしまっている、という作品だと思います。》

《太平洋をヨットで一人で横断したくなって、自分の好きなことがしたくて、自分で気球をつくって気球に乗って冒険する。その手のというか、その程度のというか、その程度の孤独さはみんなくだらない。(…)自分が持っている孤独さは、全世界を爆破してなくしてしまえ、それでなければ自分は生きていないという追い詰められた苦しさだということを、『十九歳の地図』は非常によく描写していると思います。》

「十九歳の地図」では、例外的に本格的な「悪」を描き得ている、と。ここで興味深いのは、都会に出てきた孤独な青年を描く時の中上の小説には「メタファーしかない」と言っているところだ。

《『十九歳の地図』みたいに都会に出てきた末っ子の少年を描く場合には、メタファーとしてしか描写できません。》

《(…)中上さんはメタファー、直喩とか暗喩という比喩という作家であり、同時ににおいの作家です。》

《『十九歳の地図』では、草深いところで育ったものが大都会に出てきた場合、直喩としてしか自分の出生と生活の場所の二つをつなげることができない。》

中上健次は基本的にメタファーの作家である。しかし、必ずしもそればかりだと言い切れないところが、たとえば「一番はじめの出来事」に濃厚に出ている、と吉本は言う。

《もう一つ、天然、自然のにおいと関連しますが、中上さんの『一番はじめの出来事』の特色は、『十九歳の地図』でメタファーとして出てくる描写は、『一番はじめの出来事』では天然、自然環境の中での悪童たちのいたずら話と秘密の小屋をつくるのが大きな話です。》

《同じ出生の地そのもので、天然、自然に囲まれていたずらをやって遊んでいる人間たちを描写したときには、中上さんの描写はメタファーになりません。》

《メタファーにならないで何になるかというと、自然の中にまみれている、溶け込んでいる人間という描写になっていくわけです。それは至るところにありますが、読んでみましょうか。》

《自然の動きの中にまみれている人間、本来メタファーになるべきものが一緒に、両方が、自然と自分がまみれてしまっている、解け合ってしまっているという描写になっています。これが、中上さんの大変大きな特色だと思います。》

一方で、徹底して比喩的であり、メタファーでしかない描写をする作家としての中上があり、しかし他方で、描写がメタファーにはなり得ずに自然に塗れてしまう作家としての中上がいる。それが中上健次の《二つの足》である、と。

そして、この後者の資質が、吉本が「アフリカ的」と呼ぶものだ。

《つまり、本来ならば自分の状態を自然の比喩でメタファーにするところですが、メタファーではなくて樹木の中にまみれている自身自身、僕が言うとだめですが、風や樹木のほうが主語になっている。主語になって、その中にまみれている自分や秀という悪童となっている。自然の動きの中にまみれている人間、本来メタファーになるべきものが一緒に、両方が、自然と自分がまみれてしまっている、解け合ってしまっているという描写になっています。これが、中上さんの大変大きな特色だと思います。》

《これは僕の得意のところに引っ張って行こうとすると、すぐ引っ張って行けます。(笑)日本の神話の中でも非常に初期の神話、神武天皇が出てくる前の、神武天皇のおやじさんやおじいさんなどが出てくる段階までの日本の神話を見るとわかります。日本の神話の特色は自然物、土地とかをみんな人間にしてしまいます。ですから、自然物が口をきいたり、人間らしいふるまいをしたりしても全然不思議ではないとなる。(…)神様として比喩しているのではありません。滝=何とか姫という女の神様になってしまう。これは日本の初期神話の特徴です。》

《というよりも、僕の得意の言葉で言えば、アフリカ的段階の神話です。日本の神話の中でも、初期にはどこの土地を指しているかすこぶる不明なところや、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)みたいに、「こんなもの人間ではない」という、いまで言えば抽象概念を神様にしてしまっている。抽象的な観念を人間にしてしまっているとか、自然の川の流れ、滝が落ちてくるものをみんな神様の名前にしています。》

《明瞭なことは自然物と人間はまみれているというか、イコールだという観念が支配している。こういう段階の神話を、僕らはアジア的以前のアフリカ的段階の神話といいます。つまり、中上さんの作品の重要なところはそこにある。『一番はじめの出来事』は割合、初期のものですから、たぶん中上さんは無意識のうちに描写していると思いますが、本当はアフリカ的段階の神話を非常によく象徴的に表しています。》

《これは、まだ自然が宗教になっている以前の段階の自然になります。》

しかしそのような中上健次は『枯木灘』までで、それより後になると《二つの足》の後者の方を「アフリカ的」なものではなく「アジア的」なものとして解釈して展開するようになる、と吉本は言う。そしてこれには強めの批判的な態度が取られる。

《晩年に僕らが中上さんに言ったことは、「あなたの言う路地などはないのだから、いつまでもそういう小説を書くな」と、僕はそういう言い方をしました。》

《僕だったら、ないのだからもうこんなものはよせ。なくても小説は成り立つけれども、「ない」という意味はフィクションという意味とはまた違う意味で、もうない。そういう段階は過ぎた。この段階をまだ持続する。日本で言えば吉野熊野、南で言えば琉球、沖縄、北で言えばアイヌというものが一定の意味を持つためには、いままで言われているような段階で考えてもだめだ。つまり、根拠地という意味合いで考えてもだめだ。》

《要するに、いま言ったようにアフリカ的段階まで自覚して掘れ。そこまで掘るならば全部フィクションとして成り立つから、そこまで掘るなら話は別だ。そうでないならば、つまりアジア的な段階で根拠地みたいなものを考えるならそんなものは意味がない。もうだめだからやめたほうがいいのではないか。僕はそういう考え方を、生前中上さんに言ったことがあります。》

これはぼくにとって、とても新鮮な見方で、虚をつかれるような驚きがあり、そして、簡単に共感もできないが、否定もできなくて、なるほどと思いながらも、うーん、と考え込んでしまう。ただ、改めて中上健次を読み直し、考え直すのに十分な新鮮な指摘が、ここにはあるように思う。