2025-08-15

⚫︎「芸術」は、その構成要素としての人間を不可欠とするが、同時に、それ自体としては人間から自律している、というハーマンの(ハーマン自身によるとカントの形式主義を受け継ぎつつ改良したという)考え方は、他にないオリジナリティを持ちつつ、簡単にはのみ込みにくい。だがそれは、気をてらったものではなく、オブジェクト指向存在論の基本から必然的に導かれるものだ。

そもそも、芸術という特異なオブジェクトに限らず、通常のモノとモノとの出会い(人とモノの出会いも含んだ)それ自体が、その出会いを構成するモノたちから自律した、それらを包摂するより大きいところで起きるという。例えば、人と木が真摯に出会うとき(それは、実在的オブジェクトとしての人と、感覚的性質・感覚的オブジェクトとしての木が出会う、ということになるが)、その出会いは「人の心の中(志向性)」で起こるのではなく、人と木をともに包摂する上位の審級で起こるのだとされる。

(「感覚的」という語は、主観性を持った存在を想起させてしまいがちだが、ハーマンによると、「火」と「綿」が出会って「綿が燃える」という出来事が起こるというときも、「火」と「綿」とは「感覚的」なレベルで出会っているのだ。感覚的なレベルでの出会いが、実在的なレベルのオブジェクトへと遡行して、それを変質させる。だとしても、モノとモノとの相互作用は、「実在」の極端な縮約である「感覚的レベル」でしか起こらないとされる。モノとモノとの相互作用は常に「感覚的領域」という「代理人(代理領域)」を通じてのみなされる。)

この点(芸術作品というオブジェクト)について、『建築とオブジェクト』の第4章では、ダンテのベアトリーチェへの「愛」を例とした、「(オートポイエーシス的な)細胞」というアナロジーのもとで語られる。「愛」とは、ダンテの心の中で起こる主観的な出来事ではなく、それ自体として自律したオブジェクトである、とされるのだ。「ダンテのベアトリーチェへの愛」が、ダンテからもベアトリーチェからも自律した、より上位の審級として成り立つオブジェクトである、と。引用部分の翻訳はGemini 2.5 proによる。

ダンテのベアトリーチェへの愛のケースを考えてみよう。(…)ここでは、もはや、主体ダンテと客体ベアトリーチェという近代のスキーマ、あるいは、彼女が主体であり、ダンテがその見返りに彼女の視線の客体であるという、考えられるフェミニスト的な逆転でさえもない。代わりに、我々は、近代哲学の見方とは単に異質な、より複合的な構造を持っている

このアモール、この志向的な関係の内部で、我々が今持っているのは、感覚的オブジェクトと感覚的性質の間の亀裂としてのベアトリーチェに没頭する、現実のオブジェクトとしてのダンテである。もちろん、彼は決して真空中でベアトリーチェを経験するわけではなく、常に、数え切れないほどの他の感覚的オブジェクトと性質で満たされた媒体の中で経験するが、我々はこれらの複雑さを別の機会に残さなければならない。この媒体、そのために私は「細胞(cell)」という用語を導入するが、それには三つの基本的な要素が含まれる。それが直面するものに吸収される現実のオブジェクト(ダンテ)と、現実のオブジェクト、ダンテが吸収される感覚的オブジェクトと性質(ベアトリーチェの)。現実のオブジェクト、ベアトリーチェとその現実の性質は、細胞の外に横たわる。なぜなら、定義上、それらは、いかなる所与の遭遇においても汲み尽くしがたいからである。

ダンテは、「この世界」という《常に、数え切れないほどの他の感覚的オブジェクトと性質で満たされた媒体の中でベアトリーチェへの愛を経験する。これらの複雑さの充満から「愛」を区別するために、「愛」というオブジェクトを「(周囲と相互作用しつつも自己同一的に自閉・自律しているオートポイエーシス的な)細胞」として考える。ならば、その細胞の主な構成要素が三つある、と。(1)現実的オブジェクトとしてのダンテ、そして、(2)感覚的オブジェクトとしてのベアトリーチェと、(3)感覚的性質としてのベアトリーチェ。実在的オブジェクトとしてのベアトリーチェは、いかなるアクセスにおいても組み尽くせないので、細胞の外側にいる。この細胞内で実在的なダンテは、唯一の「対象(オブジェクト)」である感覚的なベアトリーチェと、さまざまに変化する「性質」としてある感覚的なベアトリーチェとの間にある「亀裂」そのものに魅了されている。

しかし、この状況には、隠されたベアトリーチェ(…)とは何の関係もない、別の「外部」がある。私は、その下ではなく、その内部の上にあるものについて話している。つまり、ダンテが主体である場合、彼のベアトリーチェへの没頭は、今度は、誰かあるいは何か他のもの――そして彼自身にとってさえ――のオブジェクトになりうる。豊富な例が『新生』に現れる。そこでは、ビーチェの友人たちが、彼らの友人へのダンテの愛に気づき、それについて数多くのからかい、恐れ、あるいは悲劇的な発言をする。同じことが、ダンテの著作と時間を過ごす読者、中世フィレンツェの路上でこの興奮した恋人から後ずさりする鳥、そして、彼の苦しげな息によって排出される追加の二酸化炭素をゆっくりと吸収する大気にさえ当てはまる。ルーマンの社会システム理論から借りて、我々はこれを、当面はダンテ-ベアトリーチェのシステムから除外される「環境」と呼ぶかもしれない。

「ダンテによるベアトリーチェへの愛」という「細胞」には、それを成り立たせている「環境」でもある、その「外部」が存在し、その外部にとって「愛」はそれ自体が自律するオブジェクトとして扱われる。ダンテの愛をからかうベアトリーチェの友人たち、彼らが住む中世フィレンツェ街、ダンテの読者たち、そして愛する当事者であるダンテ自身にとってさえ、「愛」そのものは他から切り離されて(それを十全には決して知り得ない)自律して存在するオブジェクトなのだ。

そして、「芸術(作品)」が、ここで言われる「愛」と同等のものとされる。実在的オブジェクトである鑑賞者はオブジェクト「芸術」に不可欠の一部分だが、鑑賞者がオブジェクト「芸術」について十全に知り得るわけではない。

(このことは、「わたし(の認識)」は「わたし自身(主体)」を決して知ることはできないし、「わたし」は「主体そのもの」から疎外されている、という精神分析的な知を想起させる。「わたし」は、わたし自身が当事者でありその一部である「わたしによる愛」について、実は何も知らない。だがハーマンにおいては、これがたんに「わたしの主観(心)」の問題ではなくてこの世界の構造の問題であり、故に、「人間」に限ったことではなく、あらゆるモノ、モノとモノとによる複合的オブジェクトにおいて成り立つということになる。)

⚫︎Gemini 2.5 proは、テキストのこの部分について、次のように要約した。

《この経験の「細胞」は、決して世界の全てを捉えることはできない》という文言はここの要約としてやや不適切かも。)

 

この点を詳述するため、ハーマンは「芸術の細胞(cell)」というモデルを提示する。これは、生物学(特にマトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス理論)から着想を得た、いかなる経験の内側をも記述するための分析ツールである。ダンテのベアトリーチェへの愛を例に、このモデルは以下のように説明される。

  1. 細胞の内部: この愛という経験の「細胞」の内部には、三つの要素が存在する。
    • 実在的オブジェクト(Real Object)としてのダンテ: 愛という行為をなす主体。
    • 感覚的オブジェクト(Sensual Object)としてのベアトリーチェ ダンテの意識に現れるベアトリーチェ
    • 感覚的性質(Sensual Qualities)としてのベアトリーチェ その時々の服装や機嫌、見える角度によって絶えず変化する、感覚的オブジェクトの表面的な特徴。
  2. ダンテの経験の核心は、彼が、変化し続ける「感覚的性質」と、その背後で同一性を保つ「感覚的オブジェクト」との間の「亀裂」に魅了されている点にある。
  3. 細胞の外部: この経験の「細胞」は、決して世界の全てを捉えることはできない。その外部には、常に把握しきれないものが残る。
    • 細胞の下方: 実在的オブジェクト(Real Object)としてのベアトリーチェと、彼女の実在的性質(Real Qualities)。これらは、ダンテのいかなる経験によっても決して汲み尽くされることのない、ベアトリーチェ自身の深遠な実在性である。
    • 細胞の上方: ダンテのベアトリーチェへの愛そのものを、一つのオブジェクトとして捉える、より高次の現実(環境)。例えば、その愛に気づいてからかう友人たち、中世フィレンツェの街路、そしてダンテの息遣いから二酸化炭素を吸収する大気さえもが、この「環境」に含まれる。

この「実在的/感覚的」と「オブジェクト/性質」という二つの軸による四方分割モデルこそ、OOO美学の分析的根幹である。