⚫︎現代の哲学者は動画で語る。「Graham Harman」で検索すると、いくらでも動画が出てくる。下はそのうちの、比較的最近のもの(近著についても語っている)。そこにはミスティフィケーションはない。深遠なる哲学を語る賢者であるかのように見せかける演出はいっさいなく、ただただ早口で捲し立てる普通のおっさんがいるばかりだ。
・Graham Harman: Objects Untimely, the Subject, Freedom, and Is Kant the Enemy of Metaphysics?
https://www.youtube.com/watch?v=0dPL5T14xnM&t=85s
⚫︎比喩が、それを受けとめる者(比喩を受けとめる実在的オブジェクトとしての「わたし」)に、その「性質」を演じさせることを通じて「美的経験」を可能にするとするハーマンのロジックは、ケンダル・ウォルトンの「フィクション=ごっこ遊び説」と、ピッタリとは重ならないとしても、非常に強く響くものがあると思う。
(実在的オブジェクトとしての)ダンテは、感覚的オブジェクトとしてのベアトリーチェの単一性と、感覚的性質としてのベアトリーチェの多様性との間にある「亀裂」に魅了されると、『建築とオブジェクト』でハーマンは書く。そしてこの「亀裂」は還元不可能である、と。また、クリストファー・ウィットモアとの共著『Objects Untimely』においては、同様にこの、感覚的オブジェクトの単一性と感覚的性質の多様性との間にある「緊張」こそが「時間」を生成する(「時間」の中にオブジェクトがあるのではない)とも言っている。
そして、『建築とオブジェクト』ではさらに、感覚的オブジェクトと感覚的性質とのこの「亀裂」こそが「比喩」を可能とするものだと言う。ここで「比喩」とは、リテラリズム(文字通り主義)を逸脱するものとされる。リテラリズム(文字通り主義)は、オブジェクトを「性質の束」へと還元しようとする。例えば「知識」とはまさにリテラリズムであり、対象(オブジェクト)をその性質の束として把握しようとすることである。例えば、「酸素」は、原子番号8を持ち、それはその核に8つの陽子を持つことを意味する。それは通常、地球では二酸素(O2)という形で存在する…、等々。
それに対しハーマンは、「酸素を題材とした詩」を持ち出す。ここで取り上げられるのは、たまたまネットで検索して見つけたという「アストランクウィル」という人の書いた(普通に陳腐な)詩だ。そこでは、「酸素」が「植物の生命によって養われる」と表現されている、という。この表現を「酸素は植物の活動によって増加する」とリテラリズム的に言い換えることはできないとハーマンは主張する。以下、『建築とオブジェクト』第4章よりやや長めに引用する(翻訳はGemini 2.5 pro、下線、太字は引用者による)。
そのような場合に起こるのは、詩の中のある所与のオブジェクトが、酸素と、それが「養われる」という比喩のように、文字通りに経験するにはあまりにも見慣れない性質を獲得することである。性質は表面上でアクセス可能なままである――なぜなら、我々は「養われた」が何を意味するかについて、すでに良い陳腐な感覚を持っているからだ――しかし、食べる酸素オブジェクトは、我々にとって見慣れない。文字通りの言明の酸素が、アクセス不可能な深さを示唆しない感覚的なオブジェクトであるのに対し、養われるであろう酸素は、神秘的な現実のものである。しかし、現実のオブジェクトは、定義上、接近不可能である。そして、現象学が(少なくとも私の満足する限りにおいて)、何らかの基底となるオブジェクトに付着しない性質はないことを示したので、我々は、「養われた」が、何らかのオブジェクトに属さなければならないことを知っている。しかし、それは感覚的な酸素ではありえない。なぜなら、その場合、我々は感覚経験のレベルに留まり、単に文字通りの言明をすることになるだろうからだ。そして、仮説によれば、ここではそうではない。詩の酸素は、代わりに、アクセス不可能な現実のオブジェクトでなければならない。さもなければ、美的経験の魔法は決して起こらないだろう。そして、現実のオブジェクト、酸素は、定義上、不在であり、したがって、「養われた」性質の担い手として除外されなければならないので、残された選択肢は一つしかない。細胞から決して退かない唯一の現実のオブジェクトは、見る者である。つまり、私自身が酸素を演じ、地球からのすべての木によって養われるというその性質を経験する。それは、古いミメーシスの概念であるが、完全に逆転している。すなわち、芸術家がオブジェクトの模倣を製造するのではなく、芸術の見る者が、見られるものの非文字通りの模倣を演じるのである。これは、なぜ美的経験が我々の存在全体を展開するのかを明確にするのに十分であり、一方、文字通りの言明は、我々を、その内容に同意または不同意する中立的な見る者以上のものとして、その真ん中に引き込むことはない。後者の操作は、独断的な合理主義者の精神生活全体を構成する。
さらにハーマンは、この章の「まとめ」で次のように書いている(翻訳はGemini 2.5 pro、下線、太字は引用者による)。
・文字通り主義は、オブジェクトと、それを通して知られる性質の束との間に、違いを見ない。すべての知識は文字通りである。なぜなら、それは、オブジェクトを、その断片の性質へと下方へ、あるいはその効果の性質へと上方へと還元し、オブジェクトにそれ自身の言葉で会う方法を知らないからだ。(…)文字通りのものと美的なものは、反対である。物は、性質の束として現れるか、あるいは、オブジェクトと性質の間の亀裂として現れるかのどちらかである。この違いは脱構築できない。したがって、デリダが、文字通りの言語のようなものはないと主張するのは間違いである。
・美的経験の細胞の中で、感覚的なオブジェクトは、その統一された客体性と、その特徴の複数性との間で引き裂かれる。経験を美的にするのは、見る者が、美的オブジェクトの退隠した統一の代わりとなり、その性質を一つに保つことである。これが、すべての芸術が演劇的である理由であり、建築も含まれる。
感覚的オブジェクトと感覚的性質の間には常に(「一」と「多」という)「亀裂」があり、だからこそ、オブジェクトは「性質の束」には還元されない。そして、その元々ある亀裂が、「性質」の項に、常識的ではない、突飛な、困惑させる、刺さるような、新鮮な「比喩」が置かれることを許容する余地を開く。比喩はより一層亀裂を際立たせ、亀裂を顕わにし、その亀裂の露呈が、その「比喩を受け取る者」に《美的オブジェクトの退隠した統一の代わりとなり、その性質を一つに保つ》ように、その「性質(比喩)」を自ら演じることを強いる。このように「比喩を演じる」ことにより、実在へのアクセスを可能にする「美的経験」が立ち上がる。
(「比喩」が「亀裂」を露呈させることで実在へとつながる美的経験が開かれるというロジックは、道具、例えばハンマーは、それが「壊れる」ことを通じて(道具的関連から外れることで)初めてそのオブジェクトとしての実在性を露わにするというロジックと、直接つながっているだろう。)