2025-08-17

⚫︎魔法少女山田』をU-NEXTで観た。まずその複雑さに驚いた。あんまり複雑なのでこっちの心がついていけないよ、というくらい複雑だ。

とりあえず、貝塚という男性が(自分の過去とも密接に関係があると思われる)「歌うと死ぬ」といわれている歌の因果を探っていくという流れが、全体を貫く物語の構えとしてある。ただもう一人、ドキュメンタリー映画の監督だという三田という女性がいて、この二人が「語りの主体」の位置を奪い合うような形になっている。とはいえ、この「語りの主体の奪い合い」はそこまで驚くべきものでもない。

この作品の語りの多層性・多視点性は、それよりも、テレビのバラエティ番組、ドキュメンタリー映画、古い監視カメラの映像など、撮られた時代も目的も異なる映像たちの複合によって成り立っているところにある。ネットミームや動画投稿サイトだけでなく、芸能人やテレビ局、サブカル界隈、なろう系ラノベ界隈など、様々に異質なステークホルダーによる視点の交わり、そのパッチワーク・ネットワークとしてこの「語り」がある。

例えば、バラエティ番組の乱暴さ。それは、たかだか30程度の番組で消費するネタを作るのに、人の心のトラウマ的な部分に、こんなに乱暴なやり方でドカドカ入り込んで、雑にぐるぐるかきまわすことが許されるのか、と思ってしまうくらい乱暴だ。催眠術師が出てくる件りでは特に、いきなり催眠術でトラウマに触れるなどという、そんな乱暴なことを平気でして、このあと女性がどうにかなったら責任を取れるのか、と怒りさえ感じる。こんなことを平気でするテレビというメディアこそが怖い。

(ただし、このあまりに乱暴なバラエティ番組の進行が、のちに効いてくる重要な伏線でもあるのが見事だが。)

(というか、バラエティ番組の部分は、なんて乱暴なんだ、ひっでえなあ、こんなことするなんて信じられない、と思いつつ、フィクションだと思えば「面白く」はあるのだが…。)

それにつづくドキュメンタリーの場面では、打って変わって、撮影者である若い女性の監督は、撮影対象である中年の男性に対して、撮影主体と対象という距離を丁寧に測っているように見える。監督は撮影対象に寄り添い、一定の共感を示しつつも、距離が近づきすぎないように、あくまでも観察者としての位置を保つという繊細な配慮を行っているのがわかる。しかしとはいえ、彼女はどこかで「よっしゃ、おもろい対象(ネタ)見つけたぞ」とも思ってもいるはずで、対象・他者を作品のためのネタとして見ているという側面があることは否定できない(その感覚は、ロフトでの追悼イベントにやや漏れ出ているし、さらにラストではっきり露呈する)。ただしそれは、彼女・監督の個人的な問題というより、ドキュメンタリーという形式そのものが持つ問題だろう。

当初、ネットの動画投稿サイトから発した「呪いの歌」をめぐる物語は、バラエティ番組、ドキュメンタリー映画と、大きく性質・感触の異なるメディアへと引き継がれることで、進んでいく。ここではメディアだけでなく、そのステイクホルダーも(現実に有名なお笑いタレントが登場したりする)時制も複雑に交錯していく(自分のドキュメンタリー作品に映り込んでいる時には若かった監督は、語り手・貝塚に会う時には中年の女性になっている、など)。呪われた子供の一人である女性は、バラエティ番組の乱暴な扱いの中で語られ、そもそも呪いの由来となった男性は、女性撮影者との間の微妙な距離と関係が見て取れるドキュメンタリー映像によって繊細に語られる。作品を通じた語り手である男性(貝塚)の語りは、誰かに向かって電話でことの経緯を説明している声(その相手が三田であったことが最後に分かる)と、自分が持つ手持ちカメラによる主観的映像によって構成される(だがその映像は三田によって編集されたものである可能性がある)。それぞれの人物は、それぞれに異なるテクスチャーを持った地(バックグラウンドとなる媒介)の中で語られているのだ。

(実際に登場はしないが、同じ物語をラノベとしてなんども繰り返し書いてしまうという形で「呪い」を発現させる人物、という設定もユニークだと思った。)

⚫︎この作品では「呪いの由来」となる人物・山田が、とても丁寧に語られる。彼は決して不可解で不気味な人物ではなく、ファニーではあるが、悲哀を感じる、十分に共感可能な、好ましい人として描かれる。ゆえにこの作品は、謎を掘っていく過程で生じる(記憶が消えていることに対する)不安と嫌悪感はあっても「恐怖」はあまりない。呪いの歌によって実際に人が死ぬこともないし。とはいえしかし、この中年男性・山田は、若い女性監督による「適切な距離」を保ったカメラによって撮影されており、「親しみ」のようなものが生まれるところまで近くはない。この距離感が維持されるのがこの作品のキモであり、彼は、不気味な他者ではないが、親しみのあるキャラでもない。知ることはできるが、知り尽くすことはできない、いわば普通の他者としてある(「普通の他者」としての適度な「奇妙さ」が維持される)。

(特にこれといった特徴のない中年男性にとって、生きることに対するポジティブな感覚を表現する手段が「魔法少女に扮する」くらいしかないという、現代資本主義下の貧しさの切実でリアルな感触があり、それは肯定されるべきという前提がある。)

この、「変な(ファニーな)おじさん」ではあっても決して悪人とは思えない、不器用だが真面目に見える共感可能なこの男性に、決定的とも言える「不気味さ」を宿してしまうのは「仮面」だろう。魔法少女の衣装を着てメイクを施す限りではただの「変なおじさん」であった山田が、「仮面」を被ることで一線を超えてしまったように見える。「その仮面、子供は怖がるのでは…」と普通思うだろうが、撮影者としての距離をあくまで保とうとする女性監督はそれを指摘できない。ただし、作中の子供たちは決して仮面を怖がらなかったわけで、「仮面」を不気味に感じるのはただ「観客」のみなのだが。この(観客に対する)「仮面の効果」を、倫理的にどう考えればいいのかというところで少し悩んでしまう。

⚫︎この作品では、山田が行った子供たちに「呪い」を残す行為を、明示的にし示してはいない。ただ、貝塚の持つ手持ちカメラが、彼が首をくくるのに使用したと思われる「梁」を映し出すくらいだ(絵とか、ラノベの文章とか、仄めかすものはいろいろあるが)。また、監視カメラに捉えられた「魔法少女」の映像は不明瞭で、それを山田だと特定することは難しい。なので一層、子供たちに呪いをかけた主体は、山田ではなく、あの仮面を被った(不気味な)誰でもない誰かではないかという感触が残る。それはつまり、「山田」自身はあの仮面の背後に隠れてしまうということでもあるが。

実際、前向きな歌を作り、(その歌を一緒に歌っているのだから)子供たちにもそれなりには受け入れられていたはずの魔法少女山田が、「凶行」に至ってしまう動機は不可解であり、その理由・原因は、あの「仮面」の持つ不気味さのせいだという以外には考えにくいのではないかと思ってしまう。それは、子供たちにポジティブなメッセージを伝えるためには「魔法少女に扮するしかない」ということの空虚さに、あるときふと、耐えられなかってしまったということかもしれないが。

(離婚した妻と娘には黙ったまま逃げるように引っ越され、教員採用試験にも受からなかった山田にとって、子供たちに直接接することができることは救いだったのではないかと思ってしまうが。)

(しばしば、子供の親からの不理解によって心が折れたりすることがあると思うが、親や同僚からの不理解は特に描かれていない。)

⚫︎この作品で舌を巻いたのは、物語の展開の意外性だ。いきなりバラエティが始まったと思ったら、魔法少女を怖がる女性が出てきて、彼女に催眠術をかけた時にふと口ずさんだメロディが「呪いの歌」であったことで、魔法少女と呪いの歌が繋がって、それがドキュメンタリー映画に繋がるという展開に、そんな話の繋ぎ方があるのか、と、物語の組み立てのレベルでも刺激を受けた。