2025-08-24

⚫︎お知らせ。29日公開の映画『海辺へ行く道』(横浜聡子)のパンフレットに、「紛い物とミメーシス」というレビューを書いています。以下、その一部を引用します。

 ペテン師たちは自分を「正規品」に見せるためにもっともらしいことを言う。A氏は奏介に、「人には見せたくない自分ていうのがあるだろ、でも芸術ってね、そういうの隠せないんだよ」とか、思わず名言ノートに書き付けたくなることを言う。だが、中学生に五万円で作らせたオブジェを江戸時代の名品として高値で売ろうとする「お前」がそれを言うのか、である。しかし、A氏が高名で権威ある学者や芸術家などでなく、いかがわしく信用ならない美術商だからこそ、保証書も鑑定書もなく宙に浮く「言葉そのもの」が何かを言い当てる。

 

 奏介のものづくりの師匠でもあるテルオは、テルオが作るマスクが同じ素材で肌と唇の質感の違いを巧みに表現していることに感嘆する奏介に、「たんなるモノマネではなく、物の成り立ち方を知って、別の物でそれを表現する」ことが重要で、それが「ミメーシス」なのだと言う。ある物の成り立ちを、別の物を用いた、別の成り立ち方へ変換して表現する。ある言語で書かれた詩を、全く性質の異なる別の言語へと翻訳するように。それが、たんなるモノマネではない「紛いもの」が正当性を主張するロジックである。奏介は、二次元の浮世絵の成り立ちを三次元の石膏の成り立ちへと変換し、テルオは、人の顔の肌や唇の成り立ちをラバー素材の成り立ちへと変換する。

 

 同じ「紛いもの(=模造品)」でも、高級包丁の機能を不十分にコピーしただけの関西弁の男と、自らの身体の成り立ちを用いて「お婆さんの愛する夫」の成り立ちを表現しようとしたテルオとでは、紛いものが生み出す嘘(虚構)の質が異なる。包丁を買った主婦たちが「劣った高級包丁もどき」しか得られないのに対し、お婆さんは「亡き夫」と本当に会えたのと等しい経験を得ることができたはずだ。「紛いもの」の真正性は象徴秩序によってではなく、それがもたらす経験の質によって測られ、それを実現するのはミメーシスの精度だ(しかし関西弁の男は、自分の顔=鼻を用いて包丁の形を反復するという、別種のミメーシスを実現しているとも言える)。

⚫︎追記。原作である三好銀のマンガについて書いたテキスト。

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