2025-09-04

⚫︎日本でも最近、『7』という小説の翻訳が出た、フランスの哲学者で小説家でもあるトリスタン・ガルシアの、哲学における主著と言われる『Forme et objet. Un traité des choses』の英訳版(『Form and Object A Treatise on Things』)の「翻訳者まえがき」を読んだ。なぜオリジナルのフランス語版ではなく英訳版で読むのか(読もうとしているのか)と言えば(どのみちAIに翻訳してもらって読むのだが)、フランス語版には電子書籍版がないが、英語版にはあるから。もっと言えば、英訳版はPDFになっているのをネットで無料で手にいれることができる。

Wikipedia(フランス語)をみると、トリスタン・ガルシアは、アラン・バディウに影響を受け(バディウもまた彼を有望視し)、カンタン・メイヤスーに触発された、と書かれているが、『形式と対象』の「翻訳者まえがき」を読む限りではグレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論に極めて近くて、というか、言ってることほぼハーマンと一緒じゃん、という感じだ。ロジックとしてはとても近いが、アプローチが違うという感じなのか。

ハーマンが日本に紹介された時の「モノはそれぞれ孤立・断絶して引きこもっていて、関係は二次的なものに過ぎない」という説明・解説には過剰なバイアスがかかっていて、それはまだ『四方対象』しか翻訳がなかった時点でも(つまりそれしか読めていない時点でも)「いやいや、そこだけ強調するのはおかしいだろ、関係、関係って言いまくってるだろ」と思ってまったく納得できなかったのだが、そのことは、明らかにハーマンの影響下にある(と、翻訳者の紹介を読む限り思う)トリスタン・ガルシアの思想を読むことからも明確になるだろうと予測される。

日本語の環境にいると、ポスト・ポスト構造主義的な潮流はすっかりたち消えてしまっているかのように感じられるが、アメリカではグレアム・ハーマンが本を書きまくっていて、フランスにもトリスタン・ガルシアのような人が存在するのだから、まだ全然生きてるんじゃないかと希望が持てる。

以下、Gemini 2.5 proによる「翻訳者まえがき」の要約。

トリスタン・ガルシア『形式と対象』翻訳者まえがき(要約)

この文章は、現代フランスの重要な哲学者トリスタン・ガルシアの主著『形式と対象』の英訳版に付された「翻訳者まえがき」である。翻訳者は、ガルシアの独創的な哲学体系が明晰な文章で書かれているとしつつも、その核心をなすいくつかの専門用語については、読者の誤解を避けるために丁寧な解説が必要だとしている。

ガルシア哲学の根幹をなすのは「内含(compréhension)」という概念である。これは一般的な「理解」とは異なり、ある対象が別の対象を、いかなる形であれ「内に含む」あるいは「内包する」という広範な関係を指す。例えば、集合が要素を、基体が質を、全体が部分を含むといった関係はすべて「内含」の一例である。

そしてガルシアは、哲学の根本概念である「あること(being)」を、この「内含」の逆、すなわち「内含されること」として定義する。これは「aがbを内含するならば、bがaを内含することはない」という反対称的な関係であり、存在の根本的な一方向性を示している。この定義から、ガルシアの豊かで自由な存在論が導かれる。すなわち、何らかの規定性を持つものは、それが何であれ、すべて「何か」として存在するのである。ガルシアは、論理的、言語的、文化的な様々な理由から特定の種類の実在を否定しようとする伝統的な形而上学の戦略に、この原理をもって対抗する。

彼の哲学のもう一つの柱は、徹底した「反還元主義」である。対象を、それを構成する物質的要素へと還元する「下方還元」や、それが属する社会や歴史といった全体へと還元する「上方還元」は、対象そのものを見失わせる暴力だとガルシアは考える。では、対象とは何か。それは、「その対象が内含するもの」と「その対象を内含するもの」との間の「差異」に他ならない。対象とは、この二方向からの関係性の間に存在する、まさにその「違い」そのものなのである。

この定義から、「凝縮(le compact)」という不可能性が導かれる。もし対象が自己自身を内含するならば、内含するものとされるものが同一になり、両者の「差異」はゼロになる。つまり、対象は消滅してしまう。したがって、いかなる対象も自己を内含することはできない。しかし、人間はしばしばこの「凝縮」へと向かう傾向を持つ。自己の内へと引きこもろうとすること、宇宙と一体化しようとすること、完璧な自己意識を求めることなどは、すべてこの不可能な「凝縮」への志向であり、人間の条件の多くがこの不可能性に基づいていると示唆される。

さらにガルシアは、「なんでも(no-matter-what)」と「物ならざるもの(something-other-than-a-thing)」という難解な概念を導入する。前者は、「あらゆる規定を欠いている」という規定そのものを指す。一見すると矛盾しているように見えるが、この概念によって「どんなものでも何かでありうる」という、マイノング的ながらも独創的な存在論が基礎づけられる。

後者の「物ならざるもの」、すなわち「世界」は、関係性によって定義される対象が自己同一性を保つことを可能にするための概念である。もし対象が単に関係の束であるならば、関係が少しでも変わるたびに別の対象になってしまうか、あるいは究極的にはすべてが相互に関係しあう唯一の全体しか存在しない、というジレンマに陥る。ガルシアは、対象は「物ならざるもの(世界)」の中に「単独で」存在すると主張する。この「世界」は、あらゆるものを内含するが、それ自身は何ものにも内含されない。なぜなら、もし内含されれば、それは自己を内含する「凝縮」した存在となり、消滅してしまうからである。

このようにして構築されたガルシアの体系は、下方(要素)と上方(全体)からの説明に抵抗し続ける対象そのものの姿を捉えようとする。それは、ヘーゲル的な最終統合を拒否しつつも、ニーチェ的な反形而上学に陥ることもない、新たな哲学の可能性を切り開く試みであると、翻訳者たちは結論づけている。

⚫︎『激しい生』の翻訳者によるトリスタン・ガルシアの紹介。

www.repre.org