2025-09-09

⚫︎U-NEXで『はだかのゆめ』(甫木元空)。

青年、中年女性、中年男性、お爺さん、という四人の人物。この四人は、同じ空間(共通の建物や風景)にいるようだが、決して行き合わない。それぞれ、パラレルワールドの別の世界にいるかのようだ。

とはいえ、青年と中年男性は行き合い、直接に会話をかわす。だが、どこか隔絶した感じだ。二人は、父と息子のようで、おそらく父は死んでいる。だから、行き合い、会話を交わしつつも、模糊とした壁があり、別の世界にいるかのような感触がある。

また、青年は、直接触れ合うことはできず、話もできないが、遠くをながめるような距離感で、中年女性のいる世界を見ているようにみえる。そして中年女性もまた、青年の存在を(「見える」というのは違う感覚によって)感じてはいるようなのだ。そしてこの二人は、母と息子という関係であるようだ。

父と息子との関係においては、息子が生の側にいて、父が死の側にいるかのように描かれる。しかし、母と息子の関係においては、生きている母が今は亡き息子のことを感じているようでもあり、生きている息子が亡くなった母の世界を遠くから眺めているようでもあり、どちらともいえないように場面が構成されている(どちらかというと、母の方が生きている感じが強いようにも感じられる)。

そして、お爺さんの世界がある。お爺さんは、他の三人の誰とも行き合わず、会話を交わすこともなく、一人、孤立した系としてある。ただし、他の三人は、生きているようであり、すでに死んでいるようでもあり、その存在の仕方がどこか朧げであるのに対して、お爺さんの世界だけは、確実に生の世界、この現実に位置しているように感じられる手応えがある。

つまり、四人の人物がそれぞれ切り離された異なる時空にあって、しかし、その世界はまったく隔絶しているのではなく、間接的ながらもつながりや行き来がある。それは、一方に生の世界があり、もう一方に死者たちの世界があるというのではなく、ある地点から見ると別の地点が死の世界のようであり、しかし、そちら側から見ると、こちら側こそが死の世界のようでああるという、相対的な形式になっている。世界が複数あり、各々が違う繋がり方で繋がっていることにより、生と死とが相対化された中間地帯のような世界が構築されている。

(青年と中年男性との関係では、青年の方が生の世界であるようだが、青年と中年女性との関係では、どちらともいえないが、やや女性の方が生の気配が強く感じられる。だが、その中年女性は、お爺さんと明らかに同じ家に住んでいるように見えながらも行き合うことがまったくなく、明確に生を感じるお爺さんに比べると死の匂いが漂う。つまり、「青年(生):中年男性(死)」、「中年女性(生):青年(死)」、「お爺さん(生):中年女性(死)」、と三つのペアがあって、これにより青年と中年女性の「生/死」が決定できない。)

一方に生の世界があり、他方に死の世界があり、その間にどちらでもない中間領域があるというのではなく、二つの世界のそれぞれが、他の世界との関係性において、生の世界でもあり死の世界でもあるかというような反転可能な「両価的」なあり方として作られている。

このような世界の構築のされ方が、この映画の独創であり、面白さであると思う。

(この、四つの異なる世界の関係は、映画の進行とともに微妙に変化する。映画の中間を過ぎた頃から、青年と中年女性とが同じカットに収まることがあるようになって、二つの世界の距離感が変わったり、ずっと「一人」であった中年女性が近所の男性(?)と会話を交わして「生」の感じが少し強くなったりもする。)

映画の最後で、確実に「生(=現実)の側」にあるように感じられるお爺さんと、青年とが言葉を交わし、「同じ時空」に存在する場面が現れる。それにより、お爺さんと青年が「生の側」で、中年女性と中年男性が「死の側」にあることが確定するような形で、作品は収束する。それは、ラストに至ってようやく確定されるのであって、それよりも前に結論があるわけではない