2025-09-10

⚫︎『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(近藤亮太)をU-NEXTで観た。これは素晴らしかった。見かけは懐かしいJホラー風ではあるが(わざわざフィクションの「現在時」を10年前に設定することで、それよりさらに13年前の失踪事件にかんする呪いの「憑代」をVHSテープという古い素材とするなど)、Jホラーの歴史と技法を踏襲した上で、いわば「古いピース」を「新しいやり方」で組み立てることで、Jホラーを別ものとして作り替えようとする、というような野心を感じた。

また、もはや一般的形式ともなったモキュメンタリーホラーとは真逆の方向で、あくまで「映画」としての語りの端正さ(演出と、そして脚本がすごく端正であることに驚く)で勝負しようとしているところにも野心が感じられた。ホラー的ギミックは最小限に抑えられ(おそらく「幽霊」は一回しか出てこなかったはず)、あくまで「語り」で勝負する作品だ。

ホラーであるから「死」が主題となっているが、扱われるのは事故死(事故による行方不明)であり、そこには、他者への強い憎悪もなければ殺人もない。極端な暴力も残酷描写もなく、人間の心理の特にエグいところだけを取り出して強調することもない。不気味(理解不能)な他者への排除・恐怖を煽ることもない。女性への暴力的表象もないし、どんでん返しを招くための極端な嘘や裏切りもない。不幸な事故(失踪・行方不明)があり、それがずっと未解決であることが、残された家族に影響をいつまでもじわじわ与え続けるという重たい事実のみが問題とされる。その意味で、Jホラーを継承しつつそれへの批判的な側面も大きい。

⚫︎描写の端正さでまず驚かされたのが、主人公と同居している男性に「霊感」があることを示す描写だ。主人公を取材しようとする女性の新聞記者が防犯ブザーを身につけているのを見つけた同居人が、「その防犯ブザー…、あなたが恐れているのはストーカーとかじゃないですよ、オレ、そういうの見えるんで」と言う。一瞬、何のことかわからないが、一泊遅れて、ああ、そういうことか、と思う。そして彼は続けて、「ね、詮索されるの嫌でしょ」と言う。説明的でも大仰でもない何気ない二つのセリフで、ニュアンス含めどれだけ多くのことが表現されていることか、と、この序盤の時点で作者に対してかなり大きな信頼を持った。

⚫︎過去に秘密のある主人公と、霊感を持つ(霊が見える)その同居人のペアという設定はありふれているが、この二人にはいわゆるホモソ的な男の子ノリがない。穏やかで、一定の距離と遠慮を保ちながら、しかし深い信頼で繋がっているという感触がある。同性カップルであると解釈できなくもないが、特に強くそれを示唆するようなものは、性的なニュアンスなども含めてない。この二人の関係が独特の雰囲気を持っていて、どのような意味においても紋切り型から遠い。この関係の感触が、この作品の美点のかなり大きな部分を占めるだろう。

また、二人を取材する女性記者にも、何か「死」にまつわる出来事が過去にあったことが匂わされるが、それが明らかにされることはないし、その気配が「この事件」に過剰にリンクすることもない(微かに共振する感じはある)。しかし、彼女が「何かを抱えている」という感触が、この人物のする行為の選択に対する信頼につながる。物語世界は、呪いや恐怖の波状攻撃のようにはならない。世界の歪みが端正に積み重ねられるが、特に強く恐怖を煽り立てるような細部はなく、抑制的に進行する。

⚫︎ホラー的な恐怖の感触は、物語的な因果関係とは相性が悪い。その「恐怖」の由来を説明する背景的因果がある程度明らかにされたからといって、そもそもの恐怖が解決されるわけではない。因果の「歪み」や「破綻」のありようこそが恐怖の由来であり理由であって、背景因果の説明や構築は、恐怖とは別種のパラノイア的欲望につながり、それはまた「別の物語」を作り出す。つまり、心霊的恐怖(のリアルさ)ではなく擬似科学的オカルト世界(の構築)になっていく(『リング2』が、ほぼ擬似科学的SFであったように)。

しかし、30分の短編ならともかく、2時間近い長編映画で、あまりに「物語もなし」「説明もなし」「解決もなし」のままで、「裸のままの恐怖の剥き出し」だけだと(リンチのようにはやれない、ジャンル映画としてのホラーの宿命である)エンターテイメントとして観客を説得できなくなる。ホラーにおいては、この兼ね合いが常に悩ましい。

(たとえば『リング』では、霊能者が数学者でもある、など、心霊的恐怖の側面とオカルト的世界構築の側面とが巧みに折り合いをつけられていた。)

ホラーにおいて「解決」がどのようなものなのかは自明ではない。例えばミステリであれば、犯人と動機とトリックが合理的に明かされればひとまずは「解決」と言えるだろう。通常の物語では、理路整然とした因果の整合性の回復と、それによる波乱の収束(たとえば主人公の成長など)が、納得と感情の落とし所になる。しかし、そもそも因果の整合性とは別の事柄が問題となるホラーでは、何をもって「解決」とすれば良いのか。学校に幽霊が出る。調べたら、以前にいじめられて自殺した生徒がいた。この取ってつけたような因果関係は、ホラーが生み出す感情と恐怖のリアリティとはあまり関係がない。(必然的に、とまでは言えないが)一般に、物語性が高くなればなるほど、恐怖のリアリティから遠くなり、ホラーは嘘くさく、薄っぺらになる。

この映画においても、前半の、心霊的恐怖の感触の生々しいリアルな描出から、後半に移行し、やや「謎解きフェイズ」的な感じになっていくころに、そのような「説明的な白々しさ」が生じてしまいそうな危うい気配を感じた。主人公の弟が行方不明になった廃墟の「呪いの由来」みたいな話に収束しまったらしらけてしまうだろうなあ、と。

しかし、この作品はあくまで「心霊(人が「死」に対してもつ感情のリアルさ)」の側に踏みとどまる。後半のこの「踏みとどまり」がまた素晴らしい。

⚫︎ネタバレになってしまうが、結局のところ「謎」などどこにもない。いや、超常的な現象は存在し、幽霊のようなものも確かに存在するようだ。「山」には何かしら特別な力があり、そして、その山には存在しないはずの廃墟が出現し、それが人を誘い込み、神隠しのように消失させる。しかしそれは、足を踏み外せば谷に落下するといった現実的な物理法則と関連した山の危険と大して変わらない。そこだけ「別の法則」が働いているようだが、そこに何かしら、誰かの「呪い」や禍々しい事件のような特別な由来があるわけではない。なぜかはわからないが「そこ」はそういう場所なのだ、以上。

ようするに、主人公の弟は不幸な事故により事故死した。悲しいことだがそういうことはあり得る。ただし、いつまでも遺体が見つからず、弟はずっと「行方不明」であり続け、事件は未解決であり続ける。そのことが(未解決という宙吊りが)、主人公の家族(父や母)、そして主人公自身を蝕んでいく。弟はいつまでの死者になりきれない。この作品は、このことのリアリティにどこまでも踏みとどまる。

山の不思議、廃墟の謎、さまざまに介入してくる幽霊や心霊的現象、そういうことはある。たとえば、存在しないはずの廃墟にたどり着くためには「テープレコーダー」という古いメディアが有効である、といったいかにもホラー的な道具立ては非常に魅力的ではある。ただ、それは本質ではない。というか、そのようなギミックは、あくまで「弟が死者になりきれない」こと、未解決を耐え続けなければならないことの(それによって生じる歪みの)リアリティを支えるためにある。

あくまで「世界の歪み」によってもたらされるリアリティに付き、物語(因果的な構築)の方には流れない。物語を拒否するのではない。物語はある。しかし本質はそっちではない。そのような態度が最後まで貫かれる。

⚫︎だから、映画としての端正さが要求される。物語(因果)ではないし、効果(怖がらせ)でもない。描写(あるいは「語り」)から生まれるリアリティが問題となる。