2025-09-12

⚫︎『飯沼一家に謝罪します』を、U-NEXTで観た。『魔法少女山田』と同じ、テレビ東京によるモキュメンタリーホラーシリーズの作品。『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』の近藤亮太も制作に関わっている。

出だしは、イマイチかなあと思いながら観た。世界の祭祀の研究をしている権威である民俗学者が、ある家族(飯沼一家)に対して「運気を上げる」ためのオリジナルな儀式を行った、という話が根本にあるのだが、いやいや学者はそんなことしないだろうし、そもそもアカデミックな「祭祀の研究」とはそういうこと(オリジナルを作り実践する、みたいなこと)とは違うだろう、と、前提からしてリアリティに欠けている。あからさまなフィクションならば(これはフィクションの中の「民俗学者」だからと)ギリギリ目をつぶれるかもしれないが、モキュメンタリーとしては致命的になってしまうのではないか。

以前、YouTubeのオカルト系動画で「何度捨ててもいつの間にか自分のところに戻ってきてしまう呪いの絵」という話があった。この話自体は、オカルト話として成り立っているとは思うが、動画で「これがその絵です」といって提示されるのがルオーの複製画なのだ。「不気味なピエロの絵」と言っているが、美術史上の有名な画家の有名な絵で(つまり身分や来歴がはっきりしていて謎や闇が入り込む余地がない)、しかも調べたら額込みで一万円で買えるチープな複製画のようだ。「これが呪いの絵です」と言って「モナ・リザ」の複製を出したら「いやいやそれモナ・リザじゃん」となると思うが、そのレベルだ。ホラ話に説得力を持たせるための小道具の調達が雑すぎないか、と思った。

そこまで酷くはないとしても、フィクションと現実の「繋ぎ目」の問題として、最初の段階で明らかに「嘘」と感じてしまう設定はモキュメンタリーとしてはかなりのマイナスだと、まず思った。が、見続けていくと、それはそこまで深い傷ではないかな、と思えるようにはなった。

⚫︎25年前(1999年)のある日、深夜にひっそりと「飯沼一家に謝罪します」というテレビ番組が放送された。民俗学者と名乗る男が出てきて、自分が行った軽率な「儀式」のせいである一家(飯沼一家)を不幸にしてしまったと告白し、謝罪して、その罪滅ぼしとしてこれから「四十九日の裁き」を行うと言う。一体、この番組は何だったのかという謎を、25年後、2024年のテレビ番組のスタッフが追っていく。飯沼一家は儀式の後、クイズ番組に出てハワイ旅行と賞金100万円を得るが、まもなく、家が火事になって全員が亡くなってしまった、らしいのだ。

スタッフは、この謎番組の関係者(編成・営業・現場ディレクターなど)、儀式に同席した民俗学者のゼミ生だった男、そして飯沼一家の出演したクイズ番組の関係者などに取材を行う。そして…。

⚫︎この物語はまず、超自然的な力の制御の困難さ(恐ろしさ)と、本来、超自然的な力を収めるために行う共同的な行為であるはずの儀式(祭祀)を、利己的な目的(学者としての好奇心・家族の利益)で行うことへの非難の感情に結びつく。それはまた、禁忌に触れることへの忌避の感情でもある。利己心から不用意に禁忌に触れた家族は不幸になった。そして、知の思い上がりと好奇心によって禁忌を侵した学者は処罰されねばならない。これらは極めて「共同幻想」的な感情であり、教訓であろう。

しかしこの作品では、そのような共同幻想はある程度解体される。家族の不幸は、学者の思い上がった知(と、家族のそれへの期待・依存)が原因であるとは限らない。学者はたんに無力だったにすぎない可能性がある家族の幸運(クイズ番組での成功)と不幸(火災による死亡)の起因となったのは、その存在を隠された人物(存在を消され・そして・生き残った、長男)による私的な情念と恨みであったかもしれないのだ。あるいは、長男を除いた家族(父・母・妹)が(「事業の不振」を打破するために ? 、あるいは「(引きこもり・荒ぶる)長男という問題」を解決するために ? )、すでに独自のやり方で禁忌に触れていた可能性もある。長男を除いた三人と、長男の代理となった少年は、彼らだけで怪しげな心霊スポットを巡っていたのだから。さらに、彼ら家族が「向こう側への通路」として信仰していたループの存在こそが、父親の「紙ヒコーキ・チャレンジ」を成功させた(紙ヒコーキにループを越えさせた)由来であるとも考えられる。紙ヒコーキが輪を通り抜けた瞬間から、家族たちも向こう側に片足を突っ込んでいたのかもしれない。

(自分の代理となった少年まで「呪い」に巻き込むほどにオカルトにずぶずぶだった家族に対して、自分の身を守るために長男が家に火を放った可能性もある。生き残った長男はオカルトから脱しているように見えるので、彼のオカルトへの傾倒は家族たちに抵抗するためのものだったのかもしれない。)

つまり、家族の「幸運」と「不幸(破滅)」の原因は、学者による儀式なのか、長男による恨みなのか、自ら進んで禁忌に触れた家族の自業自得なのか、三つ巴になって決定不能である。あるいは、たんなる偶然である可能性もある。いずれにしてもこの家族は、すでにオカルトに塗れ、ずふずぶであったのだ。

⚫︎そしてもう一人、とても不気味な人物がいる。長男の代理として「呪い」を受けてしまった少年の「母親」だ。全体として、擬似ドキュメンタリーという形式で作られているこの作品で、この母親だけが、あからさまに「フィクションの人物」として造形されている。彼女だけは(ドキュメンタリー風のナチュラル志向とは異なる)明らかに「俳優の顔」をした俳優による、明らかに「俳優の演技」であるような演技によって演じられている。彼女(とその息子)が住む「徳島の家」も、過剰なくらい立派な構えの特異な建物であるように見える。そして、数多くの取材された人物たちの中で彼女だけが、「撮影中の番組=この作品」を「観る」ことを楽しみにしているとフタッフに告げる。彼女は「この作品」を、今、あの徳島の家で観ているかもしれない。

彼女(この母親)こそが、民俗学者に謝罪を促して(というか、強いて)「飯沼一家に謝罪します」という番組を作らせた張本人であった。そしてその番組に導かれて、スタッフは撮影を開始し、巡り巡ってその果てに徳島の「この家」までやってくるのだ。そしてこの家の二階では、呪いの発端となった(前述した通り、本当に発端なのかは疑わしいが、「発端」ということにされてしまった民俗学者と、呪いの終点となって寝たきりであることを強いられている「息子」とが、一つのベッドに折り重なっている。つまりこの家で、呪いの始点と終点とが重なって、そのループを閉じている。

(その「呪いのループ」が「この作品」によって表現されている、とも言える。)

⚫︎そして、「飯沼家の本当の長男」は、この呪いのループから何とか脱することができたのではないか。彼は今、東京から遠く離れた北海道で、過去とは関係のない妻と息子と暮らしている(彼の妻と息子は庭先で紙ヒコーキを飛ばすが、その紙ヒコーキの先に「ループ」はない)。この作品には三つの「家」が出てくる。一つは、呪いの始点であり終点でもある「徳島の家」。もう一つは、呪いから脱した飯沼家の長男が住む「北海道の家」。そして、焼失してしまって、今では粗い画質のアナログビデオの映像の中にだけ存在する「東京下町にあった飯沼家」。

徳島の家では、女(母親)が、ループ状に閉じられて封印された「呪い」を見守っている。その家に、呪いから切り離された北海道の家から(すでにリンゴ農家をやめているにもかかわらず)毎年リンゴが届けられる。北海道と徳島は、このリンゴによって辛うじて微かにつながっている。そして東京にあった飯沼家は、現実の外の、粗い映像の中に閉じ込められて朧げに存在する。この作品は、この三つの家からなるトポロジーによって構成されているのではないか。

(追記。で、そもそもの「呪い」の発端は、結局はよくわからない。飯沼家の父が経営していた工場が経営難だとか、長男が引きこもっているとか、それ以外にも外からはわからない何かしらの問題があったのかもしれないが、それらが「呪い」を引きよせてしまったのか、そもそも「呪い」が原因で様々な問題が一家に降りかかったのか、どちらかよく分からない。)