2025-09-21

⚫︎ガツンと直撃的に自分に返ってくるブーメランでもあるのだが、何かしらの「作品」に対する批判的な感想を見ていると、その多くの場合、それが表現しているのは、作品の欠点であるよりも、それを評している評者の見識の狭さというか、思いこみや臆見であることが多いなあと思う。

これは、作品を適切に批判することの難しさ、ということになるのだが。

作品が常に正しいなどというつもりはないが(作品を批判するなと言っているのではない)、それにしても、その否定の内実は、ただ、あなたの持っている常識の狭さや、あなたが何かに対して勝手に決めつけている定義、あるいは、あなた自身が一度も疑ったことのない(しかしそれが正当であるという根拠も特にない)リアリティライン等の「外」で作られているもの、あるいは、あなたが想像することもできていない別の価値基準で作られているかもしれないものに対して、あなたが適切に対応、反応できていないというだけのことなのでは ? 、と思ってしまう。

そういうものに対して、自分にとっては必要がない、興味がない、面白くない、よくわからない、ピンとこない、という反応をするのは正当なことだ(人には、何かに対して「興味を持たない」権利があるだろう、すべてに関心を持つことは、すべてを知ることと同じくらいに可能ではないことだ)。あるいは「違和感」と「保留」は重要だ。はっきりと否定的な態度に出るというまでの根拠はないが、ちょっとこれを即座に肯定することもできないなあという「保留」をつけることは、批判的思考の始まりだろう。実際、この世界は否定も肯定もしきれない「保留」だらけだ。

しかし、それらを理由に、断定的に否定するような態度、あるいは時には攻撃的な態度に出るのはどうなのだろうかと、感じることが多い。

何かを否定するには、否定するに足りる根拠(その正当性について吟味できる根拠の提示)が必要であり、否定は断定的であってはならない。ピーマンが嫌いな人が、ピーマンを嫌う(ピーマンを食べない・ピーマンを避ける)のは、その人の自由であり、権利であって、特に理由(理由の提示)も必要ないと思うが、ピーマンが嫌いだという理由で、ピーマンを(ピーマンの存在を)否定することは許されないのではないか。

(だとしても、ピーマンが嫌いな人が「自分はなぜピーマンが嫌いなのか」について考えることは重要だと思う。それが知性ではないか。ただし「ピーマンが嫌いな人は皆、自分がなぜピーマンが嫌いなのか考えなければならない」とまで言うことはできない。別に、考えなくてもいい。というか、ほとんどの人は考えないのだろうし、それは仕方ないかなあと思う。)

⚫︎最後の方で、肯定 / 否定 と、好き / 嫌い とが混同されてしまっているが、ここで言いたいのは、「否定」するまでの根拠はないとしても「嫌い」を表明する権利は確保される必要があるだろう、ということだ。「嫌い」を気軽に言えないのはヤバい。しかし、「嫌い」と言う権利を確保するためには、「嫌い」と「否定」との違いをきちんと確保する必要があるということだと思う。嫌っていても否定はしない、というような態度が可能である必要がある。

⚫︎「否定」「違和感(保留)」「嫌い」の、それぞれの違いが明確にある必要がある、のか。