⚫︎横浜聡子監督の映画『海辺へ行く道』は、パンフレットにテキストを書いたということもあって、ネットにあがっている感想をときどき見たりするのだけど、ヤバいんじゃないかなあと思うのは、多くの人が「カナリアの笛」という装置について、簡単にというか、素朴に信じて(受け入れて)しまっているということだ。
あんなのただの「笛」に過ぎない。そこに、「本物の芸術家だけが美しい音色を奏でられる」とかなんとか、何の根拠もない呪いの言葉が乗っかっている。繰り返すが、この言葉、この「言われ」にはそもそも根拠が何もない。しかし、根拠がないくせになぜか強気な「強目に断言する言葉」が乗っかることで、そこに呪いが発生し、選別する権利という「権威」が発生し、排除と選別を正当化する道具になる。その呪いと権威により「支配の道具」として機能してしまう。
(これは、上から押し付けられたものではなく、下から生まれる自然発生的な権威である、というところが厄介なのだ。)
笛を吹いて音が出なかったとしても、それはただ笛が壊れているだけかもしれないし、吹き方が悪いだけかもしれない。
なのに、そう言われた途端、人々はその笛を気軽に吹くことができなくなってしまう。そういうふうに「呪い」が乗っかったオブジェクトにはまず、疑って、警戒してかからなければならない。その自信満々の断定の根拠な何なの ? 、と。根拠なくそれを言うことをサギとかデマとか言うのだ。そんなものを信じてはいけない。それが「社会的な常識」なのではないか、と思う。
「この笛は、心にやましいところのない、純粋な心の持ち主にしか音を出すことができません」という言葉があるとする。心にやましいことが一つもない人間など存在しないので(ここは強気に断言する)、このような言葉はそれ自体として圧力であり威嚇であり脅迫である。そのような笛は呪物となる。
『海辺へ行く道』が良いのは、この呪いが最後にはちゃんと解かれるというところだ。差し当たり「芸術の制作」とは関係のない、不動産屋の女性も借金取りの女性も、笛を吹くと美しい音が鳴る。ここで、排除と選別という呪いから解き放たれた「(吹けば音の出る)ただの笛」が奏でる美しい音が、二人の女性の友情を祝福する。
それはつまり、最初に美しい音を鳴らした中学生もまた、別に「本物」でも「純粋」でもなかったということになる。周りの大人たちが勝手に、彼に「本物」や「純粋」であることを背負わせ、強要しているだけなのだ。だから、二人の女性が笛を奏でることで、中学生も「本物」や「純粋」から解放される。彼の「悪意」や「いかがわしさ」が認められる。