2025-09-26

⚫︎京橋の南天子画廊で岡﨑乾二郎展。

ぼくが大学に入ったのが1989年で、ギャラリーで美術作品を観るようになったのはそのちょっと前くらいからだが、35年以上前のその頃から、同じ場所で、まったく変わらない佇まいで、南天子画廊はあり続けている。京橋から銀座周辺の画廊で当時から変わらない感じであり続けているのは、南天子画廊以外ではコバヤシ画廊くらいではないか。

世界の有り様は、当時にはとても予想できないくらい大きく変わった。しかし、まったく変わらない感じで存在し続けている場所があり、そこに身を置くと、「今」がいつだかわからなくなって混乱する。南天子画廊のすぐ近くに、ぼくが90年代を通してずっと作品を発表していたギャラリー現のあった銀座一ビルというビルがあって、ギャラリーはオーナーが変わって別の画廊になっているが、ビルはそのまま変わらずにあって、そのビルの斜め向かいには変わらずに奥野ビルがあり続けている。

奥野ビルは、『セザンヌの犬』に収録した「右利きと左利きの耳」の舞台の一つで、この小説は一昨年に書いたのだが、書くにあたって改めて訪れるということはなく、本当にひさびさにその前に立って、というか、その一帯に行って、ガチで今がいつで自分が何歳だかわからなくなる混乱に陥った。)

東京駅から南天子画廊まで歩いて、画廊を出てから、中央通りを中心に、銀座一丁目から八丁目まで歩いて、新橋駅から電車に乗った。90年代には、ギャラリーを回るために月に二回はこのルートを歩いていた。

⚫︎南天子画廊の展示では、92年に発表された木板で組みたてられた彫刻作品が観られた。最近の大規模な二つの回顧展、豊田市美術館でも東京都現代美術館でも、これらの作品は展示されなかった。ぼくはこれらの作品を、新作として発表された92年の南天子ギャラリーSOKOでの展覧会で観て、とても大きなインパクトと影響を受けた。展示が92年の春で、ぼくの初めての個展が同じ年の秋、というタイミングで観たのだ。何なら岡﨑乾二郎の作品の中でも最も影響を受けたのがこのシリーズだとさえ言えると思うが、ずっと観たいと思い続けていたのに、なぜか展示される機会があまりなくて(少なくともぼくが観られる機会はなくて)、このシリーズは封印されているのか、あるいは紛失してしまったのかとも思っていたが、30年以上の間をあけてようやく再会できた。

といっても感動の再会という感じではなく、「やっぱ、普通にいい作品だよなあ」というクールな感じで観たのだが。ただ、これらの作品から自分が受けた影響の大きさというのを、改めて感じながら観ていた。ぼくのなかにある「いい作品」のプロトタイプというのは「これ」なんだよなあ、みたいな感じ。

⚫︎基本的に、直線のみのよって構成されるシンプルな「塊」から、その切り取りの多様性によって、ものすごく複雑な表情を引き出してくる。切り取りの多様性というのは、要するに切り取る角度の多様性で、「この角度とこの角度とこの角度の組み合わせ」というのがあって、その組み合わせが作り出すリズムが、絶対に単調にならない絶妙な複雑さを作り出している。切り出す角度(の組み合わせ)の操作だけで、こんなにも豊かで多様な表情が引き出せるのか、という驚きがまずある。

その「塊」にはいくつかの基本形があり、その基本形を元にしたのパターン展開のようになっている。いくつかの基本形態と、そこから生まれるいくつかの展開パターンがある。そのように作られたピースが、二つ、ないし三つ組み合わされて、一つの作品が構成される。組み合わせるといっても、接着や接合はなされていなくて、おそらく、ただたんに、積み木のような重ねられているだけだと思われる。それも、積み木のように安定して重ねられるのではなく、もたれあうように、相互依存によって自立するような形で、絶妙なバランスによって重ねられている(と思われる)。

ここで、絶妙な角度で切り出された面と面とが重ねられることで、複数ピースの構成としての作品においては、ピース単体以上に角度の多様性・複雑性が増すと同時に、相互依存によって自立する構造によって、重力が生み出す危ういバランスと緊張感が加わる。

このように、それ自体としてとても複雑な構造を持つ立体物に、さらに、空間把握を錯乱させるような彩色がなされる(この彩色が素晴らしいのだ)。ここで、色彩によって生み出される感覚・感触や強弱・遠近のリズムと、空間を把握しようとする時の構造把握の感覚とが食い違い、というか、この「食い違い」が混じり合って、三次元をはみ出すような空間経験が得られる。

(ローカルな、部分としての空間把握と、全体の構造を把握しようとする空間把握とも食い違う。)

この「三次元をはみ出す」という表現がどこまで正確なのか自信がないが、岡﨑乾二郎の作品には、三次元空間、あるいは三+一次元時空には納まらないという感覚が常にある。

⚫︎撮影OK、ブログ掲載もOKとされていた。たとえ「撮影OK」であっても美術館やギャラリーでは写真を撮らないという考えなのだが(作品の経験は写真に撮れない)、今回ばかりは(次にいつ観られるかわからないので忘備録として)その禁を破って何枚か撮影してしまった。他の観ている人も映り込んでいるのでここに載せられる写真はあまりなく、また、後ろめたい感じでこそっと撮ったので写真としても良いものがない。