2025-09-29

⚫︎地元のシネコンで、『THE オリバーな犬、(Gosh !! )このヤロウ MOVIE』(オダギリジョー)。とても好きな感じだった。観てよかった。

本来、低予算の深夜ドラマとしてやる(べき)ようなことを、わりと大きな予算と、有名俳優使いまくりの豪華キャストでやってしまうという、オダギリジョーが、自分の「特権的な地位」を利用して、(特権的地位にある)自分の「名」を使ってしか実現できないことを、しれっとやっているという映画。

芯からふざけている、というか、芯がふざけている。最近の映画は(特に日本映画は)、エンタメはエンタメとして、真面目にヒットすることを考えて作られているし、アート系やシネフィル系の映画も、そのようなものとして真面目に作られている。しかしこの映画はそのような「真面目さ」を共有していないように見える。それがこの映画の特異性であり、「真面目でなくある(存在する)ことができる」ということの貴重さを示している。

景気が悪いし、世界の状況だって悪い(酷い)。誰もがシリアスにならざるを得ない。しかしそんななかでも、ふざけてあることができる。芯からふざけたことをきちんとやることができる。そのことがいかに貴重なことであるのか。

映画として、映画館にかけるだけのクオリティを確保するということはちゃんとやっているとしても、映画だからといって、気取ったり、取り繕ったり、大きく立派に見せようとしたりすることなく(「たこ焼き」がでてきて「おしゃれ映画」ですらないことが示される)、あくまで「深夜ドラマ」のノリの軽さと浅さのそのままで、それを映画館クオリティに移植するという態度で作られていると感じた。

まさに、『熱海の捜査官』のようであり『時効警察』のようである。それは、「デヴィッド・リンチの魂」を継ぐ、という態度ではなく、「デヴィッド・リンチのパロディとしての三木聡の魂」を継ぐ、という態度であると思う。それは、映画でもなく、アートでもなく、深夜ドラマの「魂」であろう。

(リンチで言えば、リンチの映画ではなく、「ツイン・ピークス」や「オン・ジ・エアー」に近い何かが目指されているのだろう。)

そしてオダギリジョーは、それを継承できるのが自分であり、自分しかいない、と、思ったのではないか。

⚫︎基本的に俳優の映画で、俳優それぞれのキャラクターと、演技の掛け合いやその呼吸、空気感、のようなもので場面を成立されている作品だと思った。つまりそれは、脚本や演出によってガチガチに固められているのではない、ということだ。実際、脚本はかなり緩い。喩えて言えば(古い喩えになってしまうが)、吉田戦車のようなガチな不条理ではなく、しりあがり寿のような緩い不条理なのだ。

観る前には、脚本の段階でかなり複雑な構造を作り込んでいる作品なのではないかと予想していた。でもそんなことはなく、構造は緩い。お話はむしろ冗長だ。そんなに難しい映画ではないし、複雑なお話でもない(リニアに続くのではなく循環する時間―出発点に戻る―という感覚・構造さえつかめれば、何も複雑なことはない)。この映画を支えているのは、物語でも構造でも演出でもなく、俳優の演技なのだ。もちろん、それをどう撮って、どう編集するのかという問題はあるだろう。

例えば、黒木華がでてきて麻生久美子と掛け合いする場面。ここを脚本で文字として読まされても何が面白いのかまったくわからないのではないか。この場面は、黒木華麻生久美子という二つの身体・存在が同じ場所にあることから生まれる一つの空気感を出発点として、そこから発展するものとして組み立てられる。まず、この二人が「ここ」に揃わなければ始まらない。それ以前に「意味」はない。

でもそれは、シネフィルがよく言うような、その俳優の現在のドキュメントということともやや違うように思う。それは、そこからフィクションが立ち上がる原器としての二人の俳優の存在であり(つまり「その人」というより「その俳優」が基礎単位であり)、それは演劇的なものであり、あるいはコント的と言えるかもしれない。

ぼくが特に好きだったのは「犬カフェ」での一連の場面だ。これもまた「脚本」として読まされたら「ええと、これのどこが面白いのか…」とただ戸惑うのではないか。普通に考えると、観ているのも辛くなるような「寒い」場面にしかならないように思う。しかし、少なくともぼくにとっては「犬カフェ」の場面はこの作品の中でも特に好きな場面の一つだった。しかし、なぜこの場面をそんなに面白く感じるのかがよくわからない。ただ、おそらくそれには「俳優の配置」というのが大きいのではないかとは思っている。まず、「この場所」に、誰と誰と誰と誰とを配置するのか。そのうち、誰と誰とがテーブルに向かい合って座り、誰がカウンターの奥にいて、誰が後からやってくるのか。そのようなイメージの配置の中で、何かが跳ね、何が活性化される。そしてその後、そこに実際に俳優たちがやってきて、動き、発声し、そのイメージをより精緻に研ぎ澄まして、実現する(そして撮影され、編集され…)。

そういうものとしてつかまれた「面白さ」。

⚫︎あと、ベタにデヴィッド・リンチへの追悼という意味もあるのではないかと感じられた。この映画のファーストシーンとラストシーンは明らかにリンチのパロディであろう。前述したようにこれは、リンチの継承でもオマージュでもなくあくまで「パロディ」だ。しかしそれでも、ラストシーンを観ているときに、そこに確かに「リンチの映画」が降臨したように感じられ(深津絵里にリンチの魂が宿った ? )、こんな映画なのに泣きそうになってしまった(多分、ぼくがおかしいだけだが)。