⚫︎『サンショウウオの四十九日』(朝比奈秋)。現段階では、ざっと一読しただけの感想だが。
とにかく、かなりとんでもないもの(状態)を立ち上げている小説だとは思う。そこはすごい。しかし、その立ち上げていることのすごさに見合う展開がなされないうちに、それに見合わない類型的な結末をくっつけて終わりにしてしまっているようにも思われた。この小説はこれでは終われないと思うのだが…、という納得のできなさがあった。
(作品を読むということは、まずはしのごの言わずにそれをまるっと受け入れようとつとめ、それに対して自分の身体がどのように反応するのかを見る、というのが第一段階だと思うが、それはあくまで基本姿勢としてそうだということで、そうしようと思っても、違和感が次々立って、何度も疑問と共に立ち止まらざるを得ないということは、普通によくある。それも最初の反応の一つだ。)
これをやり始めたのなら、これをやるというのなら、もっともっとやってもらわないと、という気持ちになった。とても、二百数十枚というサイズに収まる主題設定ではないのではないか。
(あるいは逆に、乱暴に、生々しい部分だけを描いて投げ出す、という方向もあるのかもしれない。)
瞬と杏という、一つの身体を共有する双子の姉妹の特異な関係をめぐる話だが、その外枠として、それよりもさらに特異だと思われる、伯父と父との関係が設定されている。この、伯父と父という関係が「外枠」としてあるので、姉妹の関係がその枠の中になんとなく収まってしまう感じになっている。
(二人を常に的確に見分けて見守る父、杏と伯父との異様な感情的同調(伯父の死に対する杏の過剰な取り乱し)、伯父の四十九日になぜか訪れる瞬の死、など、双子姉妹に起こる出来事は、先行する伯父―父関係に対応づけられている。)
でも、この「伯父と父の関係」それ自身が、もっともっと追求し、展開されるべき重要な興味深い要素を含んでいる。それを、姉妹の関係の展開を小さく収めるための枠として使ってしまっているように感じられて、まず、そこに納得できない思いを持った。
また、中盤まではかなり生々しく描き出される姉妹の関係を、縮減して説明してしまう(容易にイメージ化してしまう)かのように、途中で「陰陽魚」というわかりやすい図式(イメージ)を出してしまうのもどうかと思った(この「まとめ方」で本当に適切なの ? という疑問)。
つまり、「サンショウウオ(陰陽魚からサンショウウオが連想される)」と「四十九日(伯父の死からの四十九日を区切りとして物語が収束する)」という、タイトルが示す二つの概念によって、もっと生々しい具体性を持って展開され得る主題が縮減され、枠に窮屈に押し込められているように感じた。
また、中盤過ぎまでは、強い説得力と生々しさを持って展開していた小説が、伯父の葬儀の場面くらいから、小説を収束・着地させるための記号操作みたいな匂いが濃くなってくるように、ぼくには感じられた。
それでも、終盤に語られる「瞬の死」の場面は、こんなふうな感触で描かれる「死」をぼくは他には知らない、と思い、背筋がすーっと冷たくなる麻痺的な感覚と共に恐怖のような強いインパクトを感じ、ショックを受け、もしかするとこの小説は、「瞬の死」のこの感触(この場面)こそが描きたくて書かれたのかもしれないとさえ思った。双子の設定も「この死」の描出ためにある前提だったのかも、と。そうだとすれば、やはりこの小説はすごいのではないかと思い直す。
(あくまで「別の意識」として存在しながらも、一つの身体を分有することで、自分と杏とは「同時に死ぬ」と思い込んでいた瞬が、特に理由もなく、気づくと身体からも杏からも切り離されていて、孤独に「自分だけ」が消失していく過程の中にいることに気づく、という、この冷え冷えした孤独な感触こそが「死」なのではないか。そのような非常に強烈な感覚が書かれている。また、「死の感触」だけでなく、ほぼ眠っていたかのような自分(瞬)が「杏の身体」の中で自分として目覚めていく過程の描出=母方の祖母との関係の描出も、非常に力強い説得力があった。つまりここでは、身体の分有や、意識・記憶の部分的な共有という要素よりも、個としての切断=誕生、対状態からの離脱=死、という分離する感覚の方が強く前に出ている。)
しかしそのあとにすぐ、熱に浮かされた杏のみる類型的な「象徴的な夢(記憶 ? )」の場面が続き(この場面が「ありきたり」と感じられてしまう )、そしてなんと、その夢のあと(伯父の四十九日の翌朝に)消滅したはずの瞬が(新たに生まれ直すかのようにして)再生する、というのだった。え、そんな、とってつけたような、神話類型みたいな「死と再生」で終わるのか、と。それに、この「二つの意識のうちの一方の死と再生」は、これまで説得的に書かれてきた双子の主題群、つまり、二つの意識による一つの身体の分有、意識と身体の関係と無関係、意識と別の意識との境界のありよう(分離と混淆)、二つの異質な物理的身体(部分)のギクシャクした接合の具体像、などと、ほとんど関係ないんじゃないのか、と感じてしまった。
基本的に、とてもすごいことが書かれているのに、それが適切でないまとめ方でまとめられているのではないか、あるいは、立ち上げたものの大きさや複雑さに、展開と結末が見合っていないのではないか、という感じを持った。すごいことは間違いないと思うが、だからこそより、これでいいのだろうかという疑問を持つことを避けられない。
(双子の姉妹も、伯父と父も、「2(純粋な「対」状態)」ではなくて、その間に生まれ得なかった存在がもう一つ挟まっていて「3(2+1)」であるというところなど、すごく面白いと思うのだけど、そういう面白い要素も十分に展開されないまま、という感じ。)
⚫︎ここまで書いてきて、この小説が書こうとしているのは、一つの身体の共有により一部混淆していた二つの個が「完全に分離する過程」、つまり、瞬が杏から離れ、自立していく過程なのかもしれない(それが類型的な「死と再生」という形として、形を借りて、描かれていたのかもしれない)と気づいた。分離と自立の方にこそ重きがある ? のかもしれない。だとすると、二人の物語はこの後、一つの身体を、完全に自立した二つの個が共有するとはいったいどのようなことなのか、という別のフェーズに入っていくということになるだろう。その前に、一旦途切れて、一休み(仮終了)、と。そう考えるのならば「納得できない」というぼくの感じ方は適切でないことになるのか。