⚫︎『シネマの再創造2』活動報告会 in三鷹Scool(七里圭)から、プログラムC、リプレイ『Music as film with Digital Heads』を観た。
複雑な作品なので、前提を整理する。まず、七里圭によるプロジェクトとして「音から作る映画」シリーズがあり、その最初の作品である『映画としての音楽』(2014年)があって、そのインターナショナル版として『Music as film』(2014-2016年)がある。この作品が、今回の上映の元になっている。
この作品では、まず音声トラックを先に完成させて、その後に映像が作られている。音声トラックは、オスカー・ワイルドの『サロメ』のテキストを元にして再構成された、12人のパフォーマーの言葉・歌・声の交錯と楽器の音によって構成されている。それに対して映像は、主に字幕(日本語と英語)によって構成され、稀に、無人の部屋や海岸・海面の映像が見られるのみで、(水面に映る人影を除いて)人は一切出てこない。音声トラックでは『サロメ』の物語が(解体された形で)語られるが、映像・字幕では、主に「映画(映像)と音声・音楽との関係」という観点から「映画の歴史」にかんする考察が、彼=映画、彼女=音声・音楽という擬人化された言葉で語られる。音声では、サロメ=女性がヨハネ=男性を求めているが、映像・字幕では、映画(彼)が音声(彼女)を求めているという形だ。このようにして分離したまま映像と音声という二つの流れが進むが、最後に、映像の流れの中に『サロメ』から持ち込まれたかのような「生首」が出現する。唐突に出現するこの生首のみが、音声と映像との唯一の交点であるかのようだ。
まず、そのような作品として『Music as film』がある。2000年にドイツで、この作品を上映しつつ、パフォーマーの足立智美が「活弁」を行うというイベントがあった。このイベントは、2023年に日本でも、ゲーテ・インスティテゥート東京で再演された。この再演の時に、パフォーマンスをする足立智美の頭部(顔面)の表情筋の変化を3Dキャプチャーする、ということが行われた。『サロメ』においてヨハネの首が切り取られたように、あるいは『Music as film』の映像パートに唐突に(音声トラックから切り取られたかのような)生首が現れたように、パフォーマンスする足立智美の身体から、頭部(顔面)のみがキャプチャーという形で強引に切り取られる。
(七里は、この作品に限らず、映像の上映とパフォーマンスとを組みわせて「上映+上演」という形で作品を多く発表しており、そしてその「上映+上演」の様子を撮影した記録映像が、今度は次の上映・上演作品の映像パートに組み込まれてより複雑なメタ構造が作られる、という形でシリーズを発展させてきている。ここではその「記録映像を撮る」という行為が「パフォーマンスする身体=頭部のデータをキャプチャーする」というよりデジタル度合いの強い行為に置き換えられている。)
ただしこの3Dキャプチャーは、パフォーマンスを撮影した記録映像から起こされたものであり、撮影された現場ではあくまでパフォーマンスが優先されることから、映像の状態は、多くのノイズを含んでキャプチャーするのに十分なクオリティを確保できていない。これにより、キャプチャーされた頭部(顔面)には、しばしば、フランシス・ベーコンの絵画やホラー映画を想起させるような感じで、ひどい歪みが発生する。
本来ならば失敗でありエラーであるこの「歪み」が、『サロメ』において発動される(首が切り離されるという)強引な力(暴力)を、そして、自然な影の延長である(パース的記号区分としてはインデックス記号であると言える)アナログ映像から、自然から切り離されて影を失った(イコンでもインデックスでもなくシンボル記号となった)デジタル映像への移行という「自然・実在からの暴力的な切断」を、表現するための、表現の素材(マテリアル)として積極的に使われることになる。
そして、今年の2月にゲーテ・インスティテゥート東京で行われた、ライブ ! 『Music as film with Digital Heads』となる。ここでは、多くの七里作品の上映・上演がそうであるように、通常のスクリーンと半透明の紗幕によるスクリーンという二層のスクリーンが用意される。後方にある通常のスクリーンには『Music as film』が投影され、前方の半透明スクリーンには、前回のパフォーマンスからキャプチャーされた足立智美の「デジタル頭部」を中心に構成された映像が投影される。そしておそらく、その二つのスクリーンに挟まれた中間の空間に生身の足立智美がいて、パフォーマンスを行う(下図を参照)。
ここには一つの転倒・倒錯が仕掛けられている。素朴にこの上映・上演を観る観客は、パフォーマンスする生身の足立智美の動きに合わせて、それを反映して前面にある紗幕スクリーンのデジタルベッドが動いているように見えるだろう(リアル→デジタル変換)。しかし因果が逆になっていて、前回のパフォーマンスで記録された(そしてその後に加工された)デジタルベッドの動きに、生身の足立智美の方が同期して動いているのだ(デジタル→リアル変換)。観客は、微妙な非同期や、デジタルヘッドの顔面の不気味な歪みなどから、そのことに徐々に気づいていくだろう。
⚫︎ここまでが前提となる文脈であり、まるで見てきたかのように書いているが、ぼくはこれら一連の上演・上演をまったく観ていない(ただし、『映画としての音楽』とそこから続く「音から作る映画」のシリーズはすべて観ているし、七里+早川翔人によるデジタル化の最初の作品と言える『清掃する女 亡霊』も観ている)。以上は、三鷹Scoolで行われる、リプレイ『Music as film with Digital Heads』を観るために前提となる文脈として学習し、整理したものだ。
で、リプレイ『Music as film with Digital Heads』の話になるのだが、これは、ライブ ! 『Music as film with Digital Heads』から、生身の足立智美の存在を差し引いたバージョンだという。上映は、下図のような形で行われた。

上図のような二重化されたスクリーンがあり、観客から見て後方のスクリーン(カベ)に『Music as film』(+足立智美のパフォーマンスの記録映像)が投影され、前方の紗幕スクリーンに、3Dキャプチャーされたデータによる「切り離された頭部(顔面)」を構成して作った映像(「Digital Heads」)が(スクリーンの裏側から)投射される。観客は、前面にある半透明の紗幕を通して、二重化された二つのフレームの重ね合わせを観ることになる。音声としても、もともとある『Music as film』の音声トラックと、足立智美によるパフォーマンスの(録音された)音声とが重ね合わされている。
(足立智美は、時に唸り声、叫び声を発しつつ、基本的に「活弁師」として『Music as film』の英語字幕を読み上げている。)

(足立智美のパフォーマンスの記録映像はあまり目立たないのでとりあえず置いておくとして)ここには、基本的に四つの層が重ねられている。1.『Music as film』の映像。2. 『Music as film』の音声トラック。3. 足立智美によるパフォーマンスの音声。4. 「Digital Heads」の映像。
(1)『Music as film』の映像は、ほとんどが字幕・文字(英語と日本語)からできており、それ以外は、さまざまなカウントダウンを示す映像と(水面に映る人影と生首を除いて)無人の風景があるだけだ。風景も、無人の部屋、林の中の水たまり、海(波、岩場、砂浜、海面と太陽)と、極めて限定されている。
(2)『Music as film』の音声トラックでは、大勢の声がひしめき合って、ざわめていてる。言語はおそらく日本語と英語で、短く切り取られたフレーズが、幾つも重ねられたり、畳み掛けられたりするかと思えば、唸り声や叫び声も混じり、メロディがつけられ朗々と歌われたりもする。楽音は、洋楽器だけでなくおそらく和楽器も混じって響いている。テキストは、基本的にオスカー・ワイルド『サロメ』に準拠するようだが、一部、飴屋法水の声による『サロメ』に準拠しない言葉も聞かれる。
(3)足立智美は「活弁師」の役回りであり、その声は『Music as film』の英語字幕(つまり、映像の流れの側)に準拠している。だがその声は、言葉を語るだけでなく、しばしば、呻き声や叫び声、奇声のような音を発する。ただしそれは、足立自身(その生身の身体)に由来するというよりも、自身のアバターであるデジタルヘッド(デジタルフェイス)の「歪み」に由来するものだろう。そしてこの「歪み」の由来は、(過去の、パフォーマンスを行なった時点での足立自身ですらなく)データを読み取る際に拾われてしまったノイズなのだ。つまり、まず、足立自身の身体から切り離された頭部(顔面)が、足立自身とはまったく別の由来によって「歪み」、そしてその、自分のものではないアバターの「歪み」に引っ張られる形で、足立の声が「歪」む。それによって「声(の根拠)」が足立自身の身体から切り離されてアバターの側に接合される。
(4)デジタルヘッド(デジタルフェイス)はまず、粗い網の目によって表現された、匿名的・一般的な「顔」として現れる。そこから、徐々に網の目が細かくなり、肉付けがなされるようになって、足立智美のアバター(似姿)と言えるようなものになっていく。前述したが、この頭部(顔)は、フランシス・ベーコンの絵画に描かれた顔や、ホラー映画に登場する「異物」であることを示す「不気味な顔」を想起させるような「歪み」を持った状態へと、しばしば変異する。この「歪み」は、粗い網の目による匿名的な状態の時にすでに見られる。
また、「Digital Heads」のパートには、これとは別の「顔」が二つ登場する。そのうちの一つは「(女性の)人形の顔」をキャプチャーしているそうだ。人形であり、人間の顔とは骨格が微妙に違っていることで、それ自体としてすでにある程度の不気味さを宿している。この人形の顔は、『Music as film』の音声トラックにおける「サロメの言葉」と同期(リップシンク)している。つまり、サロメのセリフを喋っているかのように振る舞う「顔」なのだ。
(足立のアバターが『Music as film』の映像パートに準拠しているのに対して、人形の顔は音声パートにシンクロしている。「Digital Heads」の映像パートには、根拠の異なる顔が並んでいるのだ。)
『Music as film』の音声トラックで、サロメのセリフや歌を担当していたのは、さとうじゅんこというパフォーマーであった。今回、そのさとうじゅんこに、『Music as film』の時と同じセリフ、同じ歌を改めて演じてもらい、その時の顔(表情筋)の動きをキャプチャーして、そのデータを「人形の顔」にトランスポートして、人形の顔に歌せているというのだ。人形がさとうじゅんことして歌っているというべきなのか、さとうじゅんこが人形として歌っているというべきなのか、もはや悪魔の領域に踏み込んでいるようにさえ思えるが、ここでは、人形=さとうが歌っているのでさえなく、すでに録音されている音に合わせて「あてぶり」をしているだけなのだ。切り離しては貼り付け、貼り付けては切り離す。確かに「首を切り離す」という意味で『サロメ』的だと言えるが、それにしてもなんと倒錯的な操作なのだろうか。
(ここで『マルホランドドライブ』を思い出さないでいるのは難しい。)
もう一つのデジタルヘッド(顔)は、『Music as film』の音声トラックの制作に参加していたseiというパフォーマーの「顔」の3Dデータを、本人であるseiの表情筋の動きをキャプチャーしたデータで動かしているという。ここでようやく「普通のつながり」が見出されるが、すでに散々、「根拠(由来)」を無視する形で、どのようにでも切って貼り付けられるデジタル的操作のよって生まれたイメージを目にしてきているので、「普通(常識的由来を持つもの)」であることが何ら特権的とは言えないというような感覚になっている。
(「Digital Heads」におけるseiの顔は、必ずしも『Music as film』の音声トラックにおけるsei自身の声と正確に対応しているのではなく、他の人の声ともリップシンクしてしまっているそうだ。だからここでも「正常なつながり」が実現されているわけではない。)
⚫︎これだけのことをやり倒しておきながら、七里圭という人が、デジタル嫌いで、シネマ主義者(フィルム至上主義者)であるというのが、何とも不思議で面白いと思う。「ぼくはデジタルに対してはアンチですから」とか言いながら、こういうことをやっているのだ。
⚫︎そもそも、ここで見られる多くの事柄は、デジタル以前のアナログ映像(トーキー映画)の時から存在する「リップシンク」という技法の異様さにつながっているものと思われ、つまり(デジタル着出によってより顕在的になるとしても)これらは必ずしもデジタルの問題というわけでもないとは思う。
⚫︎以前、この日記で、映画において、高橋洋が「虚の透明性」だとしたら、「実の透明性」を実践しているのが七里圭ではないかと書いたことがあって、これを書いたときはかなりいい加減に書いたのだったが、この見立てはそんなに悪くはないのではないかと最近思ってきている。