2025-10-16

⚫︎『つまらない住宅地のすべての家』(津村記久子)。この作家の小説はそんなにたくさん読んではいないが、いつも、ダイアグラムのような関係の複雑な織り成しが主題になっているように思う。この作品では、それがすごいことになっている。一つの路地にある十件の家に住む24人の人物たちと、加えて、刑務所から脱獄した逃亡犯、ジャーナリスト志望の学生、ゲーム好きの中学生とその叔母、と、おそらくこれですべてだと思うけど(もう一人、路地の家から出て夫と別居中の女性がいる)、これだけの登場人物が活動する。中には視点人物にならない人も数人はいたと思うが、このほぼ全員が語り手になってすごい多視点で語られる小説。主人公と言えるような中心人物のいない分散的な語りだが、実験小説的な難解さはない。

(これだけたくさんの人物が登場するのに、路地の地図と家の配置図はあっても、「登場人物一覧」がないというところに、著者の自信というか、矜持を感じる。最初は、誰が誰だったかわからなくて混乱するし、多すぎて最後まで人物の「名前」を憶えることができなかったが、次第に、名前がわからなくても、どこの家の誰なのかということが「記述内容」でちゃんとわかるようになっていくというのが、なかなかすごい。)

刑務所から脱獄した逃亡犯の地元が舞台となる路地の近所であるらしく、どうも逃亡犯が「こちら」へ向かってきているようだという状況から、互いに疎遠だった路地の十の家に住む人たちの関係が変化していく、という話で、当初は「逃亡犯」というのは話を動かすためのマクガフィンのようなものかと思っていると、終盤には逃亡犯も話の中核にガッツリと食い込んでくる。すべての線が無駄なく絡み合って図柄が作られている。

逃亡犯と言っても、職場のお金を十年かけて一千万円横領したという三十歳代の地味な女性なので、特に人に危害を加えるような恐れは希薄で、危機が差し迫っているという緊迫感はない。「何か訳ありの横領犯」が逃亡しているということで、木皿泉のドラマ『すいか』をちょっと思い出したが、そういう感じの味わいで、あくまで路地に住む人々それぞれの事情と関係の変化を描くのが主で、サスペンス物ではない。

陳腐な比喩だが、すごく盤面の広いビリヤード台の上に、たくさんの玉が複雑な配置で置いてあるところに、逃亡犯という最初の一撃があって、そのショックが盤面に大きくはないが繊細な変化を導き、個々としては細かなその変化が徐々に波及して盤面全体としての球の配置を大きく塗り替えていくという感じか。最初のショットの影響は、線的にではなく面的に複数の線として同時に波状的、網の目的に広がっていって、変化が起こる。

とはいえ、「謎」があってそれが「解決」されるといったタイプの話ではなく、あくまで個々の人物像やその生活の感触、そして逃亡犯事件をきっかけに起こる思いがけぬ変化などを描き出す物語なのだ、と思っていたら、なんと、「怒涛の大団円」のようなラストが待っていて、見事な「伏線」の「回収」が行われるのでとても驚いた。ドミノがひっくり返るように図からが変わり、マジか、と思った。ミステリのような、人為的に仕組まれた複雑なトリックというのではない、いわば、偶然に偶然が重なってとんでもないことになるわけだが。

⚫︎路地にある十の住宅の住人の中で二組(一人の独身男性と一組の夫婦)は、重大な犯罪を犯そうとする一歩手前という非常に危険な局面にあった。それが、逃亡犯をめぐるゴタゴタによってその「実行」が阻まれただけでなく、根本的な気持ちや考えの変化が起こる。この物語の終盤に起こる「ドミノ倒しのような図柄の変化」には二つの側面がある。一つは、そことそことがそう繋がっていたのか !! (あるいは、そう繋がったのか !! )、という隠された意外な事実の開示や物事の意外な展開であるが、もう一つは、関係の変質から導かれた「それぞれの人物の生」における局面の変化だ。犯罪計画の中止は、後者のうちの最も大きなものだ。たがそれだけでなく、この小説のラストでは、ほとんどすべての登場人物に「良い変化」が訪れる。大きいことから小さなことまで様々あるが、(これだけ沢山いる)登場人物のほとんどの生活に良い兆しが現れて終わる。これがこの小説の特にすごいところだと思う。

ほとんどの登場人物の生活が良い方向に向かい、そうでない場合でも少なくとも悪化はしない。あらゆる人物が「救われる」と言っていいこの小説で、だが、徹底して救われない人物が一人だけいる。それが、長谷川家の末っ子である小学生男子だ。彼だけがまったく救いようも見所もないクソ野郎のままで小説が終わる。あらゆる人物は許されるが、こいつだけは決して許さない。ここに作者の強い意志・悪意が込められているように感じた。