⚫︎『ぼくたちん家』、一話と二話をネットフリックスで。松本優紀という脚本家の名前に見覚えがないと思って検索したら、このドラマが実質的にほぼデビュー作という若い人だった。若い作家のデビュー作で、かつオリジナル物ということで興味を持ったので観てみた。
一、二話を観た限りでは、いかにも今どきの、優しくて意識高い系のドラマだった。これは嫌味ではなく、基本的に好感を持って観ることができたということだ。これがたんに「今どき」的であることを超えた、この作品固有の面白さを持つかどうかは今後に期待という感じだが、期待はできるのではないかという感触を持った。
(昨日の日記でも同じことを書いた気がするが、チラッと木皿泉の『すいか』を思い出した。ここにも横領して逃げている女性がいる。)
このドラマの主人公は「50歳代の冴えないゲイのおじさん」という設定だが、「50歳代の冴えないおじさん」の役をやるには、及川光博はどう考えてもきれいすぎる。「冴えないおじさん」の役でも、及川光博のような人がやらないと成立しないというのが地上波のドラマの限界だとも言える(このドラマは日本テレビ系列で制作・放送)。で、そうは言ってもそれはそういうものがたら仕方がないといって受け入れることもできるが、それこそがこのドラマの主題を裏切っていることにならないかという疑問を持つこともできる。頭ごなしに批判するつもりはないが、まったく気にならないということもない。
(自分に対する反論。中学生の女の子が一人でアパートに住んでいるのに、学校がそれを把握してもいないし、大家も黙認しているというのは、常識的にはちょっと考えにくい。また、「偽の父親」に教師や警察があんなに簡単に騙されるのもリアルじゃない。教師はともかく、警察が女の子の家庭環境を把握していないのはどう考えても不自然だ。このように、ツッコミどころを探せば多々あるが、一種の緩やかなファンタジーだと思えば、そのへんのところはべつにリアリズムである必要はないだろうと思う。そもそも、そういうところが現実社会に照らして厳密であることが必要とさるようなタイプのお話ではないのは、アパートの空間設定からして明白だろう。あんな「夢の国」のようなアパートは現実には存在(維持)できないだろう。中学生女子が東横キッズであることから舞台は東京だと思われるが、特に東京であんなアパートは絶対に無理だ。あのアパートはフィクションとしてのアジールだろうし、アジールの造形として魅力的だ。フィクションにはフィクションとしてのリアリティーがあり、リアリズムばかりがリアルではない。そういう意味では、及川光博が「冴えないおっさん」であるという設定も、フィクションとしてのリアリティにまで昇華・消化できれば、気にならなくなるかもしれないのだ。)
⚫︎地上波で放送される番組のほとんどは、(ニュースもバラエティも)ぼくにとっては不快でしかないものだ。ただ(一部のドキュメンタリーと)テレビドラマだけは例外だ。日本のテレビドラマは結構クオリティが高いし、野心的な試みもたまにみられる。腐ったテレビメディアの中で、唯一ドラマ制作班だけがメディアとしての矜持を維持しているのではないかと感じる。
(安易なドラマの方が、野心的なドラマよりもずっと多いのだとしても。)
⚫︎少なくとも、『ぼくたちん家』を好意的に観るような人は、高市政権を耐え難いと感じる人だろう。ドラマの視聴率が5パーセントだとして、関東圏だけで200万人弱くらいの人が観ていることになる(東京の人口からすると二割弱だが)。これは、YouTubeのリベラル系ニュースチャンネルの登録者数とは一桁違う。とはいえ、そうはいっても、丁寧に作られたドラマの影響力は、地上波のバラエティやニュースによる短絡的で即応性の高いパフォーマンスに比べるとごくごく小さいのだろうと思われる。
(余談。バラエティは嫌いだが、「ネタ」レベルでの「お笑い」は必ずしも悪くないのではないかと最近思えるようになった。)
前の都知事選の時期に、『女帝』という評伝が出版されて話題になり、ベストセラーにもなった。しかしそのことは、選挙の結果には1ミリも影響しなかった。影響したのは、石丸のくだらない動画がバズったということの方だった。昨年の兵庫県知事選になるとその傾向がさらにひどくなり、その後もまたどんどんひどくなる。もはや政治は、最も安易で低俗な動員型エンタメコンテンツになってしまった感がある。
「積極的な政治参加を」ではなく「政治=デマに簡単に動員されてはならない(参加は慎重に ! )」というメッセージ(抑制的メッセージ)こそが今は重要ではないかと思う。