2025-10-19

⚫︎新しいもの、未知のものへの探索には、たとえば見ず知らずの十のものに食指を伸ばしたとして、そのうち九つがハズレでも、多少なりとも手応えを感じられるものが一つあればそれでよしとする態度が必要だろう。いや、十のうちに一つ「当たり」を引ければ、その人は相当にカンがいいというべきだ。一つの「手応え」を得るために、十や二十や三十の空振りは厭わない。新たなものに触れた時の「驚き(という喜び)」がその探索のモチベーションであり、「好奇心」というのはそのように作動する。

人工知能の学習においては、基本的に「未知のもの」の方に探索を広げているように方向づけられていて、多方向的へと向けられた未知への探索の過程において、常に自己をモニターし続けていて、探索によってどの程度自分が変化したのかという「自己の変化の度合い」によって報酬の配分が決まるようになっていると聞いたことがある。つまり、常に多方向に探索の手を広げていながら、その中でも、それによって特に自分が大きく変えられたものの方へと動いていく。それが学習である、と。)

歳をとると好奇心が鈍ってくるのは、多方向へと探索の手を広げる体力がなくなってくるということももちろんあるが、それよりも、自分の「残り時間」がだんだん少なくなってきていることをどうしたって意識せざるを得なくなるからだろうと思う。若い時のように、気になったものは何でもかんでもつまみ食いしてみるというような時間の余裕はもうないので、ある意味で(嫌な言葉だが)選択と集中をして、できるだけ効率よくしないわけにはいかない。

しかし、そうするとどうしても視野が狭くなってくるし、いろいろ鈍くなってくる(世界に直に触れるのではなく、選別的フィルターを通して触れるようになると、どうしたって「見る目」も鈍ってくるだろう、砂の山から砂金を探すような行為だけが人の「見る目」を鍛えると思う)。若い時にようにあちこちにぶつかってやたらと探索を広げることはさすがにできないので、ある程度はズルく、多少は効率を考えざるを得ないとしても、時間を無駄にすることを厭ってはいけないのだなあと思う。時間の無駄を厭うことにょって萎縮し、摩滅して、それは結果として自分の「驚き(喜び)」を減らすことになってしまうのではないかと思う。

(とはいえ、体力がなくなっているという事実は如何ともし難い。)

そして、そのようにして、けっきょく人は、様々な事柄について、散らかしっぱなしで完結させられないまま、途切れるようにして消えていくのだなあと思う。