2025-10-25

⚫︎内田ミチル「赤いベスト」(「新潮」11月号)。新潮新人賞受賞作。これはなかなか濃かった。目次に140枚と書かれているが、もっと長いもの読んだような充実した疲労感。また、この極めて濃くて重たい(そしてひねくれた ? )、老いや死を見つめる小説のラストを、比較的明るい調子のところにまで持っていけることに驚いた。まさか、こういうラストが待っているとは、という感じ。ラストが素晴らしい。

まず、この小説の基本にあるのは、人々の寿命が伸びたことで、親を看取る頃には自分自身もすでにかなり高齢になっているという、世代のサイクルが末尾の方できゅっと詰まっているかのような現実がある。親を看取ると一息つく暇もなく自分の老いに直面せざるを得ない。いわゆる「老老介護」というのとは別の視点から、このような事実に着目していることがこの小説の一つの優れた点だろう。

語り手は女性。実際には十年以上経っているはずだが、高齢である彼女の主観においては、父の死や母の失踪はまだ近い過去にあり、にもかかわらず、彼女は自分自身がかつての父や母と同列に扱われる年齢になっているのを自覚する。この、世代間の距離がスキップされてしまっているような時間感覚が、小説の特異なリアリティの底にある。彼女の通うデイサービス先に、かつて父が世話になった職員と同じ職員がいるという事実がこの感覚を強化している。

そして、語り手が嘘つきだということも、この小説では重要だろう。夫が倒れた時に《廊下を何かが通った気がした》と不安げに口にする「太田さん」の見た《何か》を、その不安と恐怖の感覚を、対話の中で誘導尋問のように増長させて、「赤いベストの女」という(幽霊のような)幻想の恐怖の対象の像を「生み出させ」てしまう。「赤いベストの女」とは、太田さんではなく、話者・主人公自身が持つオブセッショナルなイメージであるが、それをあたかも太田さん自身の内から生まれたイメージ(太田さん自身が目撃したイメージ)であるかのように誘導するような会話をすることのできる主人公の「ペテン師的資質」が、この小説の基調となっている。主人公は、悪意を持って人を騙すというよりも、息を吐くように自然に口から嘘が出てくる人で、自分が創出したフィクション(嘘)を、自分でも半ば信じてしまうようなところがある。ここで重要なのは、自分のついた嘘を「信じ込んでしまう」のではなく「半ば信じてしまう」ことで、嘘だか本当だか分からなくなる。それはつまり、本当のこと(事実)もまた真偽が定かでなくなるということだ。それが言い過ぎだとしても、もともと事実の持つリアリティが薄いという感覚。

主人公は嘘つきであるが、ほら吹きというよりも「無意識の作家」のような存在で、彼女の嘘(赤いベストの女)は、彼女が属する高齢女性たちのコミュニティが共有するある種の不安を見事に形象化したものであるから、コミュニティの中で瞬く間に広がっていき、多くの人が「赤いベストの女」を見ることになる。

「赤いベストの女」とは、「ちょっと歩いてくる」と言ってそのままプイッと姿を消してしまった主人公の母のイメージであり(失踪時に赤いベストを着ていた)、亡くなる間際の父が見た幻想であり、まるで「父の幻想」がそのまま現実化したかのような、父の死の際に見かけた介護職員(たまたま赤い上着を着ていた)の姿であり、これら三つのイメージが複合された、主人公が囚われているオブセッショナルなイメージである。そのようなイメージを、夫が倒れてそのまま亡くなってしまうかもしれないという不安の只中にある太田さんに移植しようとする。何かしらの悪意や企みがあるわけでもなく、話者・主人公は、ちょっとした「いじわる」のような感覚で、そういうことをしてしまう人、あるいは、そういうことを思わずしてしまうことを抑制できない人だ。

「赤いベストの女」というイメージの成分で最も濃いのは「母」だろう。主人公には、弟ばかりが可愛がられて、自分は母から可愛がられなかったという感情がある(失踪時に母が着ていたはずの「赤いベスト」が、なぜか、孤独死した弟の家から発見されるという、不可解で魅力的なエピソードが描かれるが、このエピソードは、主人公の感情の底にある母・自分・弟の関係を的確に表していると思った)。また、認知症だった母は、失踪以前にも何度か行方がわからなくなることがあり、その度に、発見してくれた人から「なんでちゃんと見ていないのだ」という言外の非難・圧力を感じていて、その末に失踪させてしまった(母がいなくなってしまうという予感を感じていながも、無意識に母を疎ましく感じてしまっていた自分は、それをわかっていつつ気づかないふりをして、そのまま放置し、失踪させてしまったのではないか)、という後悔と罪悪感が、失踪以後の十年間にわたって常に主人公の感情の底に流れているという感触がある。

もう一人の「赤いベストの女」(正確には「赤いジャンパー」なのだが)がいる。彼女は、父の死の際に傍に存在し、今では、介護施設で主人公を日常のケアを担当している《女》(名は「広瀬さん」だが、地の文では「女」と呼ばれる)だ。彼女はこの小説で最も重要な登場人物だろうと思う。この小説全体が、主人公と「女」との、言語的・非言語的な「対話」によって成立していると言っていいように思う。

(主人公は「女」に対して嘘ばかり語り、「女」は、クライアントに対する差し障りのない一般的な対応しかせず、つまり表面的には「深い対話」など一切ないのだが、この二人の存在が対面することによって、そこに言外の深いレベルでの相互作用が起こっている。この小説は、それこそを描いているように感じられた。)

主人公は、介護職員であるこの「女」の聞き取り調査に、まったくの「嘘」である経歴を語る。存在しない「夫」と存在しない「息子」をでっちあげ、その二人ともを亡くなったことにして、存在する「弟」と存在する「甥」を存在しないこととする。地元には、女性の主なパート先として「星野自動車」と「井野川パン」があるが、実際には「星野自動車」で働いていたにもかかわらず「井野川パン」で働いていたと言う。

主人公は嘘つきだが、彼女が高齢女性たちのコミュニティの人々、たとえば「佐々木さん」につく嘘と介護施設の「女」対してつく嘘とは、どこか質が異なるように思う。高齢女性たちのコミュニティでつく嘘は、対人関係の緊張から生まれるもののように見えるが、「女」に対する嘘は、「女」への「依存」に近い感情の現れであるように感じられる。主人公は「女」に対しては、思うまま、口から迸り出るそのままの嘘を、無防備に、抑制なく語る。それは主人公が自分よりもずっと若いこの「女」を「舐めている」からではあるが、その「舐めている」という態度まで含めて、とても広い意味で(と言うか、とても「微妙」な意味で)「信頼」しているように思われるのだ。

そして、主人公が「女」に対して語る嘘は、「赤いベストの女」のような不安や恐怖の形象化ではなく、あり得たかもしれない「もう一つの人生」の話であり「もう一人の自分」の姿なのだ。実際には「星野自動車」で働いていたのにもかかわらず「井野川パン」で働いていたのだとする嘘は、わずかな賃金の違いに目が眩んで間違った選択をしてしまったのではないかという「この生への後悔(あるいは、つかみどころのない「パン屋」への憧れのような感情)」を表現しているのと同時に、この嘘こそが、重たく続いていくこの小説に(奇跡的だとぼくは思うのだが)、とってつけたようなものではなく、説得力のある、明るさを含んだラストを呼び込むことにつながっている。

終盤で主人公が、失踪時に母が来ていたベストを着て、母の行為をなぞるように山へ向かう。その時に、このまま主人公が母を反復して終わるのならば、それはあまりにも安易な結末ではないかと危惧したのだけど、今まで書いてきたとおりそんなことはなくて、反復は失敗し、驚くべき、明るさを含んだラストに至る。このラストが、「嘘」と「間違い」によってもたらされるというところもまた、この小説の主題と響いている。とても良かった。