2025-10-28

⚫︎村上春樹にとって比喩とは何か』(はんざわかんいち)をパラパラ見ていたら、『羊をめぐる冒険』から、ちょっと面白い比喩が使われる場面が引用されていたので、それについて考えたい。なお、この本の初めの部分(「初期作品1」と名付けられている)で著者は「比喩もどき」という概念を展開しているが、ここでは著者の主張とは関係ない別のことについて考える。

以下は、『羊をめぐる冒険』からの引用(『村上春樹にとって比喩とは何か』から孫引き)

今ひどく寒く、手がかじかんでいる。まるで僕の手じゃないみたいだ。僕の脳味噌も、僕の脳味噌じゃないみたいだ。今、雪が降っている。他人の脳味噌みたいな雪だ。そして他人の脳味噌みたいにどんどん積もっていく。(意味のない文章だ)

「他人の脳味噌みたいな雪」、そして雪が「他人の脳味噌みたいに積もる」という比喩がある。まず、寒くて手がかじかんで、自分の手を他人の手のように感じる。これは普通のことだ。さらに、寒さで萎縮してしまい、まともにものが考えられないことを、脳味噌が「僕のものじゃないみたいだ」と表現する。思考を、脳味噌として物象化・対象化し、思考の萎縮を、それが自分のものではないみたいだという違和感、あるいは離人的感覚によって表現する。ここには、表現の一捻りというか、一工夫がある。とはいえ、これもまた普通だ。

そこから飛躍があって、「他人の脳味噌みたいな雪」が「他人の脳味噌みたいに積もる」という表現が生まれる。「他人の脳味噌」は「雪」の状態の比喩であり、同時に「雪が積もるさま」の比喩でもある。

この文章表現には、三重の機能が働いていると考えられる。

(1)前述の通り、「雪」あるいは「雪が積もるさま」が「他人の脳味噌」という比喩によって表現されている。

(2)「雪」あるいは「雪の降るさま」というイメージと、「他人の脳味噌」というイメージとの常識的ではないモンタージュ(合成)によって、ある独自な表現のテクスチャー、あるいはテイストが生まれている。

(3)「雪」と「他人の脳味噌」というイメージのモンタージュによって生まれた「テクスチャー・テイスト」によって、登場人物の感情、あるいは、この小説が表現しようとする主題系の一つ(ある一部分)が表現されている。

(1)は、通常の意味での直喩であろう。とはいえ、「雪」を「他人の脳味噌」のようだとする直喩は、かなり無理がある比喩だ。だがこれには、ここに至るまでの段階的な比喩の発展があり、「自分の手じゃないみたいな自分の手」「自分の脳味噌じゃないみたいな自分の脳味噌」「他人の脳味噌みたいな雪」と、紋切り型の表現から徐々に離陸していくグラデーションと、「自分の手」「自分の脳味噌」「他人の脳味噌」というイメージの連鎖的展開がある。ただし、「自分の手」「自分の脳味噌」は喩えられるもの(実体)であるが、「他人の脳味噌」は喩えるもの(比喩)であるという逆転がある。というか、自分の手「じゃないみたい」な手、自分の脳味噌「じゃないみたい」な脳味噌は、比喩というより「否定」であり、その否定の積み重ねから「他人の脳味噌」という具体的イメージかぽろっと表れて「比喩」となる。

「雪」と「他人の脳味噌」という常識的ではないモンタージュは、(解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の出会いとは違って)いきなり結びつけられるのではなく、段階的に発展していくため、グラデーション的な連続性と切断的な飛躍感とが同居するという効果を持つだろう。つまりここには、「雪」と「他人の脳味噌」という飛躍的モンタージュが形作るテクスチャー・テイストを実現させるための、ホップ・ステップ・ジャンプという展開がある。

(1)が、説得力(連続性)と驚きや新鮮さ(飛躍)との両方を持って実現するためには、その前段階(自分の手じゃないみたいな手・自分の脳味噌じゃないみたいな脳味噌)が必要であり、前段階とセットになることによって特異な比喩が成り立つことによって、(2)のテクスチャー・テイストが生まれ、そこで生まれたテクスチャー・テイストが、より高次のもの(主人公の感情や作品そのもののテイスト)の表現となることが、つまり(3)が可能になる。

自分の手じゃないみたいな自分の手(自分の身体)と共にある、自分の脳味噌じゃないみたいな「僕の脳味噌」が、「他人の脳味噌」みたいに降り積もっていく「雪」を見ている。まるで、自分の脳味噌じゃないみたいな《僕の脳味噌》が、「他人の脳味噌の中」に存在しているかのようだ。この異様な場面は、(1)から(3)までの機能が重なって実現されていることから生まれていて、ここまでなされてはじめて「比喩」が小説として面白く機能する。

この場面を「意味的」に解釈するとすれば、手がかじかむほどの寒さを感じるほどに、その場面の只中にいるにもかかわらず、自分が今立っているこの雪の降る場面そのものを、どこか他人事でリアリティーのないものと感じてしまっている、ということになるだろう。しかしこのような意味的解釈をした途端に、ここで成立している表現のテクスチャー・テイストはその手触りと彩りを大幅に縮減させてしまう。つまり作品が意味の多くを失う。

⚫︎この本の近いページには、次のような引用もある。《店に出入りする学生たちが彼女に本を貸し与え、彼女はそれをとうもろこしでも嚙るみたいに片っ端から読んだ》。これは、(1)の意味では適切で気の利いた比喩だが、しかしだからこそ(1)以上の効力は持たず、たんにそれ自体としてある気の聞いた比喩に過ぎない。本を「貪るように」読む、肉を「貪るように」食らう、という表現が両者とも常識的に使われることからも分かるとおり、「本を読む」ことと「ものを食べる」こととの間にはイメージの類似性、親和性があらかじめ常識としてあるので、一方を他方の比喩として使うことによって驚きは生まれないだろう。