⚫︎『光のそこで白くねむる』(待川匙)を読んだ衝撃に震えている。この小説を読むことは、とにかく「疲れる」ことだった。それは、次々と現れるみっしりとした密度と重みのあるイメージが、常に何重にも折り重なっているのをかき分けかき分けして進むしかなく、しかも、いくらかき分けてもその重なりが最後まで一貫してずっと続いていて、不透明なまま手探りで進み、先行きや全体が見通せるという感覚をまったく得ることができないで進むしかないからだ。これからしばらくはこっちの方向へ、この感じで進むのか、と思うことなく、すぐに方向が変わり、またつぎの角を曲がり、上ったかと思うと下り、その先の扉を開くとまた全然違う景色が現れる。
だがそれは、この小説に構造や仕掛けがないということではない。まったく逆で、さまざまな仕掛けに満ち満ちている。いわゆる、伏線とその回収が山のように盛り込まれている。ある記述が(それはその記述それ自体で十分に充実した面白さがあるわけだが)、のちの展開で「意味」が大きく変化するということが多くある。例えば、冒頭近くに、《昨日は飛行機でこちらへ来て、祖母のところに寄った》と書かれている。この文を常識的に読めば「祖母のところ」とは「祖母の家」あるいは「祖母の入所している施設」で、そこで祖母と会ったと考えるだろうと思うが、しかしそうではないことがしばらく先でわかって「えっ」となる。大ネタから小ネタまで、伏線とその回収、常識とその裏切り、謎の提示とその解決が、いくつもいくつも張り巡らされていると言ってもいい。しかし、謎が明かされたところで、意外性への驚きが惹起されはするが、全体の状況が見えたりや先行きの予測が立ったりすることはない。不透明要素「青」が不透明要素「黄色」に変わって「おおっ」と思うが、それが不透明要素であり続けることは変わらない。
あるいは、この小説には明らかに、(受動的・能動的な)暴力の気配・記憶とその否認(精神分析的に「否認」とは否定する身振りを通じて結果として「認める」ことだ)という一貫した主題がある。それは「わたし」と「あなた」の二者関係から発して、家族関係、小学校(中学、高校)、《坂》と呼ばれるコミュニティ全体にまで波及する。
『夢判断』(フロイト)七章の夢解釈に対するラカンの再解釈(『精神分析の四基本概念』五章)がある。息子を亡くした父親が遺体の隣の部屋でうたた寝して夢をみる。息子が父の腕を掴み「父さん、僕が火傷するのが分からないの」と責める夢だ。目覚めると、夢に予言されたかのように弔いの蝋燭が倒れて棺に燃え移っていた。フロイトはこの夢を、父は前意識で火に気づいていたが、息子と再会する夢が睡眠を長引かせた(つまり「夢による願望充足」)と解釈する。しかしラカンは違って、夢こそが父を目覚めさせたとする。父には息子との関係において意識から排除された(記憶に回帰することのない)、死因にもかかわる後悔があり、その関係の不調(現実)が息子の「責める口調」として夢に入り込んだ。そして父は、その「現実」に直面することから逃れるために目覚めた。それは現実(表象)の中では決して出会うことのない、夢というもう一つの現実であり、夢から覚醒への移行の中で「出会い損なうように出会う」ことしかできない意識の空隙としての現実である、と。
「現実」というものの配置の中に位置を持ち得ない、リテラルな事実によってでは表現できない「リアル(真実)」に、夢の中でこそ出会う(出会い損なう)ことができる。この小説の、固有名の排除や、出来事の事実としての定位への拒否(何が事実なのか確定しないこと)は、夢にしか持ち得ない「リアル」に触れるためだと言えるだろう。この小説における「わたし」と「あなた(キイちゃん)」との対話は、このような意味での現実(リアル)な暴力の感触に基盤をおく。しかし同時に、この小説は、この線に沿ってだけ構造化されているのではない。
たとえば、小説の中程に、「わたし」の《父》が、中学時代に野球部の練習中に落雷を受けたというエピソードが語られる(「わたし」も知らないはずのこのエピソードは、なぜか「あなた」によって語られる)。それ以来、《父》はやたらと怪我をしやすい体質になってしまった、と。もし、この小説が、「わたし」と「あなた」の関係に横たわる「暴力の否認」によって構造化されている小説であるならば、こんなエピソードはなくていいし、作品の主題を見えにくくするだけだろう。そもそも、このようなエピソードは発想されないだろう。しかしこの小説には、このような構造に貢献しないように見える細部が多くあり、それらが強く主張するように充実している。この、父の中学生時代のエピソードは、「わたし」と《父》との関係に対してもほとんど何も影響しない、自律した存在としての父の像を際立たせるためだけの、宙に浮いたようなエピソードだ。つまり、ある「構造」は明確にあるとしても、それによってすべての部分が制御されているのではない。
(構造はあるが、それと同じくらい強く、粒だった、構造に還元されない細部もある。たとえば、「先生」が喫茶店の壁の中に消えてしまう、とかも。)
落雷を受けた中学時代の《父》は、周囲の心配をよそに中華料理が食べたいと考える。この、中学時代の《父》が通う中華料理店は、「あなた(キイちゃん)」と《手足が細長い》その《兄》とが通う《隣町》の中華料理屋とイメージと混同しがちで(どちららも「半額」あるいは「ほとんどお金を取らずに」で食べさせてくれる)、それによって、中学時代の「わたし」の《父》と、《小学校を出たばかり》の「あなた」の《兄》の像が重なって曖昧化する。このようなイメージの連鎖は、「暴力の否認」による構造化から、さらに大きな逸脱となるだろう。
(《父》の存在感は特に、この小説の中で「あなた」と「わたし」の関係に還元されない要素として強くある。)
いちいち、滑らかに進めない、滑らかに読めない、ようになっていて、その都度、不透明なイメージにぶつかり、遮られ、かき分けて進む。一個一個のイメージに、都度都度、直に、探りながら触れる手触り感があるが、同時に、伏線と回収という距離を踏破する仕掛けがあり、全体としての否認構造から発せられる感覚が隙間が垣間見えもする。一つ一つのイメージ、一つ一つの文、あるいは一つ一つの語に触れるときの、その触れる姿勢や距離感、肌触りから解釈のやり方までを、そのたびに一つ一つ探り、考えながらでないと、進んでいけない。さまざまな頭や感覚の使い方を、あらかじめ待機・準備して備えつつ、次の文に進むたびに、そのうちから適切なやり方を見つけ出さないといけない。そのようにして、一つかき分けるたびに、都度都度、質の異なった「感覚」や「驚き」や「面白み」が湧き上がるようにやってくる。この感じが際立っている。
⚫︎前述した、『夢判断』の父の夢に出てくる亡くなった「息子」は、夢の人物であるという意味では「父の主観」内部の人物だが、この息子の存在そのものが、父が排除した「現実」を突きつけるという意味では十全な他者である。父は、この他者=現実との対峙から逃れるように目覚める(ラカンの解釈)。しかしこの小説の「わたし」は、目覚めることが許されない悪夢の中で、他者である「あなた」の声を聞き続けることを強いられる。相手に向かって「あなた」あるいは「キイちゃん」と呼びかける「わたし」に対して(「わたし」は「あなた」を懐柔しようとする)、「あなた」は「わたし」を一貫して《おまえ》と呼んで詰めてくる。空想と妄想の違いは、空想は自分の欲望によってコントロール可能だが、妄想は現実と同じく、あるいは現実よりもずっとコントロールできない。「強いられる」という意味で現実よりもさらに強い「現実」である妄想の中で「あなた」の声は途切れることがない。「あなた」の語る内容よりも、「あなたの声が聞こえる」ということそのものにリアル(暴力の手触り)が宿っている。「先生」「川原」「恐竜 / カイギュウ」「顎の傷」「頭につける器具」「骨」…。これらは、排除された「現実」から漏れ出てくる、生々しさを刻みつけられた記号・イメージの切片であり、これらがさまざまな形で組み替えられたエピソードが語り続けられ、それを語る声を聞くことが強いられる。
(「あなた」は「わたし」に対して、自分がさも被害者であるかのように告発的に語るが、しかしその語りそのものが「わたし」に対する加害でもあり、「わたし」こそが被害者であるかもしれないのだ。「あなた」は「わたし」をいじめた多くの子供たちと同じ「笑い」を浮かべる。)
声はまず、「わたし」に《寝なね》と語りかけてくる(「nenane」)。「わたし」はこれを《わたしの意識の前提となっている、めったに表にはあらわれずふだんはその存在すら感覚されない、でもずっとついてきていて、人生のうち例外的に数回だけ介入してくることのあるわたし以前のなにものか》だと直感する。この時点ではまだ「わたし」に優しいこの声は、もうこれ以上眠り続けることができないくらい眠って目覚めた後に(そこからさらに「目覚める」ことのできない場所で)、「わたし」を責める不穏な他者の声へと変化する。それは、近所の小学校の鐘の音によって呼び出され、飛行機の中で恐怖を叫ぶ子供の声によって先触れされる。
これが、この小説のリアリティを支える、根底に流れるものであるが、しかし同時に、それはこの小説の、あくまで一側面でしかない。
⚫︎まるで息を吐くように自然に日本語としての超絶技巧が使われまくるこの小説で、その一つ一つを検討していくと際限がないが、特に技巧的ではない何気ないところでも、この小説は文章そのものの細かい表現が面白い。たとえば…
店のことは、わりあい好きなほうだった。店には整然としたリズムがあった。客の多寡すらもあらかじめ計画されていたかのように動く。慣れてくると、朝におもてのシャッターを開けた瞬間、繁忙期と閑散期の切りかわる音が聞こえてくる。修学旅行の時期、海外のバックパッカーが多く訪れる時期、休日でもほとんど客のいない時期、それらの境目が空気からわかる。
店のシャターを開けた瞬間に《繁忙期と閑散期の切りかわる音が聞こえてくる》。繁忙期と閑散期が「切りかわる音」。ここだけで自律した短歌作品のようである、ちょっとありそうでない表現だ。その後の、境目が《空気からわかる》という表現は普通だが。
機械があった。ちんまりとした古い空港のなかで、高速バスの券売機だけが新型に置き換えられて、三台も並んでいる。光沢のない黒の筐体の中央で、手触りのよさそうなパネルがあかるい光を放ち、頻繁に表示を切り替え、その明滅が一つのリズムをなしている。
新型のバスの券売機のタッチパネルを《手触りのよさそうな》と形容するのも、ありそうでない感じ。実際に、あからさまに「手で触る」ところを「手触りのよさそうな」と、ベタにそのまま喩えることの、順張りによる逆張り、みたいな感じ。
あと、10月30日の日記に書いた「礒﨑さんの小説を想起させる細部」は、「わたし」が上京する朝の場面。
翌朝、駅に向かう途中で、もういちどきちんと聞いてみたいと思ったけれど、上京の朝を迎えたわたしに対して、いつも静かな母はだれか別人に憑依されたかのようによくしゃべった。おかあさんは若い頃飛行機に乗ったことがある。おかあさんはそのときカナダに行って、友達と四人でツアーに参加したのが最後で、おかあさんはそれから三十年は海外どころか国内線にも乗っていない、今は機内食もよくなったと聞くがおかあさんは食べたいと思わない、おかあさんは、おかあさんは、と一方的にまくしたてた。駅の前に着くと、電車がやってくるまでまだ少しあるのに、ああそうだ、おかあさん洗濯機まわしっぱなしだからね、帰らないとね、じゃあね、と言いきらないうちから、いま下ってきたばかりの坂をそそくさと戻りはじめ、坂を上るにつれ背中はどんどん小さくなって、わたしはただそれを眺めていた。東京での生活が始まり、家賃や税金の支払いに振り回されて過ごすうち、気づけば母とは疎遠になっていた。