⚫︎『光のそこで白くねむる』(待川匙)の後半は、基本的に「わたし」と「あなた(キイちゃん)」との対話・対立によって展開していく。ここで一つ見逃せないのは、「わたし」が呼びかける相手の呼び方に、「あなた」と「キイちゃん」との間で揺れがあるということだ(なお、「キイちゃん」はこの小説に現れる唯一の固有名だ)。当初「あなた」と呼ばれていた誰かは、「わたし」が地元の駅に降り立ったあたりから「キイちゃん」と呼ばれるようになる。このことは特に不思議なことではない。地元に帰ったことで、その存在にわずかばかりの具体性が加わった。あるいは、二人の関係が抜き差しならないものであることを「わたし」が認めざるを得なくなって「キイちゃん」と言う名(呼び名、あだ名)が現れた。
地元に戻って以降、ずっと「キイちゃん」だった呼びかけが、しかし終盤になって、「キイちゃん / あなた」の間で揺れが起こるようになる。「キイちゃん」と呼び続けていた「わたし」は、唐突に、《あなたの姿を想像するときに出てくるのは、あなたが一時期、頭に装着していた器具のことだ》、と「あなた」と言い出す。続いて、《あなたには、お兄ちゃんがいたね。成長期にさしかかりはじめた、手足の細長いお兄ちゃんだった》、と言う。頭に装着していた《器具》、そして《お兄ちゃん》が登場するところで、「わたし」は再び相手を「あなた」と呼ぶ。そしてここには、とても大きな対立が現れる。
「わたし」は、「あなた」が《お兄ちゃん》の手招きによって道路に飛び出して交通事故に遭い、そのために頭に《器具》を装着するようになったと言う。だが「キイちゃん」はそれを否定する。《おれ》には《お兄ちゃん》などいない。《おれ》が頭に《器具》をつけていたのは、《おまえ》が《おれ》の顔から、(地面から恐竜の骨を掘り出すように)その内部にある「頭蓋骨」を掘り出そうとして、《おれ》の顔にスコップを突き立て《打った》からだ。それに対して「わたし」は言う。《それは違うよ。わたしはキイちゃんをころしていない》。
「わたし」と「キイちゃん」との間には、大きな対立が二つある。一つは、この土地の、川原の石の下に埋まっている「骨」が、「恐竜」のものであるのか「カイギュウ」のものであるのか。もう一つは、「キイちゃん」の頭に装着された《器具》とその「死」の原因が「わたし」であるのか、ないのか。そして、より直接的な暴力の匂いが生々しい《器具》について触れるとき、「わたし」は対立する相手の呼び方を「キイちゃん」からより距離をとった「あなた」へと変更(後退)させる。
一度「あなた」となった呼び方は、すぐに「キイちゃん」に戻るが、その後にまた「あなた」になる。
スコップであなたの頭をかるくさわって、もしかしたらわたしは言ったかもしれない。骨があるよ、と、そう言ったかもしれない。でも、そんなことでひとは死なないんだよ。あなたの頭蓋骨に傷などついていないはずだし、あなたが頭に器具をつけて生活していたのも、そのこととはまったく無関係で、あなたの死因はそのこととも、もしかしたら器具をつけることになったほんとうの理由とさえも無関係だったかもしれなくて、わたしはもうよく覚えていないけれど、川原ではきっと何も起こらなかったはずで、でもあなたがいつまでも恐竜を信じていることが、わたしをいまだにそんなふうに思っていることが、わたしにはいま、ほんとうにかわいそうだと思う。
引用部分の終盤で、語りが急速に転換して、《わたしにはいま、ほんとうにかわいそうだと思う》と傲慢にも言い切ることの、この表現の冴えと恐ろしさに震えつつ、頭に装着された《器具》のイメージのあまりに生々しさに耐えられず、「わたし」の認識が《わたしはもうよく覚えていないけれど、川原ではきっと何も起こらなかったはずで》と、曖昧さへと後退していくさまが感じられると思う。ここからラストまで、二度と「キイちゃん」という名は現れず、《わたしを呪ったこの土地の骨を無差別に掘り返してみたい。そして、もういちどあなたに会ってみたい。あなたの骨がどんなかたちをしているかみてみたい》、という文で小説が閉じられる。ここではもう「あなた」は、「わたし」を呪ったこの土地の人々の誰でもあり得る誰かであり(架空であるにしろ、実在であるにしろ)「キイちゃん」という名で呼ばれる特定の誰かではなくなっているように感じられる。
⚫︎基本として二人の対話・対立で進む後半の展開の中で、しかし、二人の第三者の介入が目立ったものとして見られる。一人は《先生》で、もう一人が「わたし」の《父》だ。ただ、第三者といっても、《先生》はそもそも「わたし」と「あなた」とを媒介した人物であるから、二人の対話・対立の中に《先生》の存在が見え隠れするのは当然と言えるだろう。とはいえ、《先生》という人物が、この小説が二人のあいだに横たわる「暴力の気配」へと収斂してしまわないための抵抗物として一定の存在感を示しているのは確かだろう。
(昨日の日記にも書いたが)もう一人の第三者である《父》は、後半の展開の中に、特に際立った異物のようにゴロッと存在し、その存在は終盤に向けてますます大きなものになっていく。終盤には、二人の対立に対して、《父》の存在が示す流れは第三の勢力と言い得るまでに拡大し、三つ巴の展開になるとさえ言えると思う。《先生》を介した「わたし」と「キイちゃん」の場所であるはずだった(そして、「事件」が起こった / 起こらなかった場所である)《川原》も、終盤には、若い頃の《先生》と、子供時代の《父》によって乗っ取られてしまうかのようだ。終盤において《父》は、年上であることの優位性から上から目線で「恐竜などいない / カイギュウというエビデンスがある」と「キイちゃん」を見下す「わたし」に対して、いわば「恐竜の骨のある世界線」の存立を保証する人物として、「キイちゃん」の味方寄りの立場にある人物だとはいえる。子供の頃の《父》のいる世界戦では。恐竜の骨は《父》によって発見され、駅前のロータリーに恐竜の像を建てる計画さえ持ち上がった。
この《父》の存在は、「わたし」と「キイちゃん」との対話・対立という場面とは、まったく別の流れとしてあるが、しかし別の通路を通って、別の側面から、結果的に「キイちゃん」の言葉を(つまり「わたし」が「キイちゃん」をころした、を)支持しているように見える。
⚫︎もう一つ、見逃せない細部がある。「わたし」と「キイちゃん」とが、必ずしも対立する存在ではないことを示す、「キイちゃん」が「わたし」と自分とを《おれたち》と呼んでいるところ。
先生の教室でいっしょに遊んでいたころ、おれたちが、きょうりゅうをさがす、と言っても、ほかの子はおれたちのほうを見向きもしなかった。おれたちだけがそこにいた。おれたちはそこに存在しないも同然だった。おれたちは、地面を掘り返し、雑草に分け入り、川底をさらって、骨をさがした。何度さがしても、骨が見つかることはなかった。