⚫︎ちょっとした思いつきに過ぎないが、「言葉」を、主にコミュニケーションのために、それを主眼にして使おうとする人と、そうではなく、何かをできるだけ正確に、記述し、表現し、考えるための使おうとする人とでは、なかなか折り合わないのだなあと思った。「そんな言い方じゃ伝わんねーよ」「いやいや、そんな風に言い換えると意味が違っちゃうだろ」「頭硬いな、そもそも伝わんねーと意味ねーだろ」「そんな形で伝わったら嘘になるから、むしろ伝わらない方がマシだ」「お前、自分だけ特別に〈わかってる側〉にいるって思い上がってるだろ」「いや、だから、オレがどうとか、そういう問題じゃねえんだって」「なんとなく雰囲気がふわっと伝わるだけでも、まったく伝わらないよりぜんぜんマシだろ」「なんとなくわったような気になることこそが〈わかる〉ことから最も遠いだろ」「だからさ、なんとなくふわっとでもわったような気にもなれないものは、その人の中で〈ないこと〉にされんだよ」「その人の中に〈まちがったもの〉を存在させてしまうくらいなら〈ない〉ままの方がマシじゃん」「おまえ何もわかってねえな、〈ある〉ものを〈ない〉ままにしてしまうのは超ヤバいことだろ、たとえば政治的にも」「いやいやいや、むしろ〈まちがったもの〉を存在させる方が政治的にヤバいのでは…」
⚫︎この文章を書き出す時点では、ぼく自身は後者の側にあると思って書き出したのだが、たったこれだけの文を書いてみただけで、うーん、必ずしも後者にだけ思い入れを持つことはできないなあと、判断がブレてしまう。
⚫︎だがしかし、最初にこれを書こうと思った動機とは違った方向に議論が進んでしまった気がする。書きたかったのは、コミュニケーションには決して還元できない「リアル」があるということだったと思う。ここで、「コミュニケーションには還元できないファクトがある」とすればわかりやすいし、これについては多くの人に賛同してもらえるのではないかと思う。しかしここで言いたいのは「ファクト」ではなく「リアル」の方だ。ここでリアルとは、テイストであり、美であり、感覚であり、つまり(政治ではなく)芸術の問題だ。
人が、ある作品や作家と「出会う」とき、それは「この作品は〈このわたし〉のために作られた」、あるいは「この作品は本来〈このわたし〉が作るべきものだった」という思いと共に出会う。もちろんこれは「勘違い」に過ぎないのだが、このような勘違いこそが(勘違い「だけ」が)、人と作品(芸術)とを決定的に結びつける。これは、ある文化・教養の体系の中で人が作品と出会うこととも違うし、あるコンテンツがファンコミュニティを通じて人々のコミュニケーションを組織化し、人々の生活を(生を)再編成するということとも違う。
(うろ覚えでそのまま書くので正確でないかもしれないが、確か、ジジェクによるデリダとラカンの論争のまとめだったと思うが、デリダが「手紙は宛先に届かないことがあり得る(東浩紀的な郵便的不安のことだ)」というのに対し、ラカンは「たまたま、偶然に届いたところこそが、事後的に「本来の宛先」になる」とする。人はこのように、たまたま出会い頭にぶつかったものを固有の運命だと勘違いすることで、決定的に何かに出会う。勘違いによって偶然=運命として受け取ってしまった感覚のことを、ここでは「コミュニケーションに還元されないリアル」と言っている。近接的、連続的、因果的コミュニケーションに対する、遠隔的・離散的、偶発的コミュニケーションというべきかもしれないが。)
(そもそも、文化・教養の体系が社会的に成立していなければ、このような偶然=運命の出会いの成立は困難なので、背景・地として文化・教養の体系があることと「リアル」とは対立的・排他的なものではない。ただ、「リアル」は(近接的)コミュニケーションの言語との折り合いが悪いということだ。たとえば「美術史入門」や「現代アート入門」の、これを知って何になる ? 的な「リアル」感の希薄さ、など。)
このような偶然=運命としての「リアル」は、主観的・個別的な〈このわたし〉の経験なのでコミュニティによる共有・伝達になじまない。共有困難だからこそ、その「リアル」を受け取ってしまった者は、それを「できるだけ正確に、記述し、表現し、考える」という努力をする必要が強いられる(対他的にだけでなく、何よりも対自的に)。そしてそれは常識をはみ出した奇妙なものにならざるをえない。周囲の者たちから、よくわからない変わり者だと思われながら、それがまた別の、遠隔的・離散的・偶発的コミュニケーション(別の誰かの勘違い)の起点となり得るはずだという「信仰」を支えにして、それを行う。
(偶然は、一回的であることから一般化できず、故に「運命」となる。逆から言えば、運命の根拠は「偶然」しかない。)
(偶然・運命は、特異的、あるいは少数的であるのではなく、一回的であることによって共有が困難なものなので、一般性(共有)に対する偶然的個別性(運命)は、マジョリティに対するマイノリティという概念とはまったく別のものだ。)
そして、まさに遠隔的・離散的なコミュニケーションが容易になった(ように一見思える)現代のメディア環境において、逆説的に「偶然を運命と勘違いすることで生まれる「リアル」への信仰」の成立が極めて困難になってしまった。「ファクト」以外のあらゆるものがコミュニケーションの効果であり、なんならば、「ファクト」を置き去りにしてコミュニケーションの効果だけですべてを決定できるかのような(しかし、物理的現実は存在するのでそんなことはありえないが)風潮の現代世界の中で、コミュニケーションにもファクトにも還元されない「リアル(≒芸術)」が存在する場を確保することが恐ろしく困難になったように思う。
おそらく、今日の日記の最初の行は、以上のような意味での「リアル」を、コミュニケーション重視の人に(ファクト重視の人にも)伝えることの困難さについて言いたくて書いたのだと思われる。
(いま、ここでは目覚ましい作用を見せることのない、隔たった遠くから受け取ったものを、さらに、隔たった遠くへと投げ返そうとする、そのような行為によって今、ここにあるしかない〈わたし〉の生を形作ろうとする、このような生のために必要な「信仰」を持つことの困難さ。)
⚫︎しかしそもそも、この世界が決定論的なものであるとするなら、「偶然」という概念がまさに勘違いでしかなく、それは限定された視点の持つ「無知」を意味するということになる。