⚫︎京都芸術センターで、松原俊太郎・作、山本浩貴・演出、リーディング公演『インポッシブル・ギャグ』。
ぼくは昔から「左翼笑い」が嫌いだった(「左翼」が嫌いなわけではない)。ザ・ニュースペーパーとか、松尾貴史とか、ウーマン村本とか、芸人としてのいとうせいこうとか上岡龍太郎も好きではなかったし、最近ではダースレイダー、プチ鹿島とかもあまり好きではない。この「嫌い」という感情の内実を自分の中で十分に分析できてはいないが、単純に面白いと思えないということと、存在のあり方が嘘くさいという感じがどうしても抜けない。
(たとえば、俳優をやっていたり、飲み番組で真っ赤になって酔っ払っている松尾貴史はぜんぜん嫌いではないので、人ではなく、あくまで「お笑いネタ」としての左翼笑いの立ち位置が嫌なのだ。)
『インポッシブル・ギャグ』は、内容的にはあからさまに「左翼笑い」に入ると思うのただが、ぼくの「左翼笑い」嫌いセンサーが全く反応しなかった。言い方が回りくどいが、「嫌い」という感情が全く沸かなかった。ぼくの好き嫌いなどどうでもいいと言えばどうでもいいことだが、ここで言いたいのはセンサー反応の有無で、いわゆる「左翼笑い」とは根本的に違う何かがここにはあるということだと思う。
もう一つの内容的な特徴として、ネタの多くがドメスティックだ、ということがある。日本に長く住んでいて、テレビやポピュラー音楽などの大衆文化を空気のように浴びている、ある一定の世代の幅に属する人にしか通じないであろうネタに満ちている。おそらく、どんなに巧みに翻訳したとしても海外に持って行くのは難しいのではないか(あるいはピンチョンの翻訳並みの多量の注釈が必要 ? )。作者や演出家、俳優たちよりはだいぶ年齢が高く、テレビもほぼ観ないし、お笑いに詳しくないぼくには、拾えなかった(理解できなかった)ネタも多くあるだろうと思う(とはいえ、案外わかるものだなあと思ったが)。
一度、アメリカへ進出したが日本へ復帰しようとするカニエというお笑い芸人とその相方の大爆笑という芸人(カニエは日系アメリカ人だという)。空港での入国審査のやり取りが、そのまま、M-1での審査員とのやり取りと重ねられるこの作品において、ネタが徹底してドメスティックであるとこは、非常に強いアイロニーを醸している。ミイラ取りが自ら積極的にミイラになりに行くかのような強烈なアイロニーを浴びせかけられているかのようにして、この上演を観た。
そもそも「お笑い」というものがとてもドメスティックなもので、国境を越えるのが難しいということがまずある。ゆえに、ドメスティックなネタで笑えるか、笑えないかによって、あるいは、ドメスティックに笑えるネタを披露できるか、できないかで、インサイダー / アウトサイダーの区別(選別)を行う指標とすることができる。「笑い」の感覚こそが、身内と外様、味方と敵とを切り分ける(分断する)。
笑いとはまず、権力者への追随(愛想笑い)であり、その愛想笑いを集団で共有することを強いる「空気」である(その空気を受け入れ、自ら進んで「笑う」ようになることが服従だ)。また「笑い」は、「コミュニティから排除されるべきもの」への嘲笑の共有をインサイダーたちに強いる「空気」でもあろう。この場合、「笑い」とは差別そのものである。ただし、自ら進んで「笑われる」ことを(差別される役割を)受け入れる者は、道化者として特別にコミュニティの最下層の地位を与えられる。
何が笑えて、何が笑えないか(何がおもろくて、何がおもろないか)を判定するのが権力であり、権力の圏内において積極的に「笑えるもの」を作り出せる者が尊敬される特権者であり(この特権者が権力を代行する審査員となる)、自ら進んで「笑われる」ことを従順に受け入れる道化者は、ギリギリ、インサイダーであることが認められる(権力代行者たちに「可愛がられる」)。そして、無自覚に「笑う」多数の者たちが権力の服従者だろう。そのような状況の中に、「ゲレンデ(つねに滑る)」と揶揄される漫才コンビが、「別の笑い」への意思を持って切り込んでいこうとする。それがこの作品の基本的な前提であろう。
ゲレンデ(他称)は「大爆笑」と「カニエ」からなるコンビだが、すんなりとは入国できない。もっと言えば、「大爆笑」は「癒着」があるからすんなり入国を許可され、しかしカニエは(おそらく「見かけ」が直感的に「日本人ぽくない」からという理由で)簡単には入国を許されない(しかし彼らは元々日本で活動していた)。この「直感」こそが権力と差別の根拠となるだろう。空港という内でも外でもない空間において、入国の許可と拒否との間の境界線上で、「ゲレンデ」の二人は、「笑える / 笑えない」の境界線上にあるやり取りを延々と繰り広げる。ここでのやり取りは、「お笑い」でもなく「お笑い批判(お笑い拒否)」でもなく、作中で「笑えるもんは笑えるし、笑えんものは笑えん」と言われるような態度によるもので、「笑い」を強要もせず、否定もしないだろう。実際、戯曲も、上演・演出も、笑わせるでも笑わせないでもない一定の状態をキープしているように感じた。観客としてのぼくも、時々笑ったが、ずっと笑っていたわけでもないし、たくさん笑ったわけでもない。
(泣いたから感動した、というわけではないのと同様、笑ったから面白い、というわけでもないのだ。)
しかし、審査員=検閲官たち(マツモト、タナカ、エンドウ、ジュニア、キタノ、このモデルが誰であるのわかるくらいにぼくも権力の圏内にある)は、あくまで「お笑い」や「おもろ」を要求し、「ゲレンデ」たちに対して威圧的なダメ出しを繰り返すだろう。「ゲレンデ」たちは、検閲官の権力・意向に従順になるのではないが、真っ向から反発するのでもない(彼らはやはり入国はしたいのだ、「ミチコ」のためにも)。そこでさらに「笑えるもんは笑えるし、笑えんものは笑えん(あるいは、心が動けば笑うし、動かなければ笑わない)」という困難な(インポッシブルな)ギャグの可能性が試行され続ける。それは、ツッコミを入れずにひたすらボケまくることかもしれないし、またべつのやり方であるのかもしれない。とにかく彼らは、インポッシブルなギャグというミッションをひたすら試行し続けることをやめない気配だ。
そして、この入国の許可と拒否とをめぐる境界線上の攻防は、インサイダーであり、その環境内に閉じ込められている側にある「ミチコ」という女性・子供の見ている「悪夢」でもある(インサイダーの悪夢)。ミチコは笑わない。「お笑い」的な笑いを拒否するミチコが笑うのは「犬」を見て思わず微笑む時だけだという。そして、そんなミチコの「推し」のお笑いコンビが「ゲレンデ」なのだ。ミチコはゲレンデを必要としているが、ゲレンデは、アメリカに去ったまま入国審査に引っかかって入国できない。ミチコとゲレンデの出会いを阻止する「壁」こそが彼女の絶望であり、ミチコは壁に向かってただ「クソ」という呪詛の言葉を吐くことしかできない。
そんな、「クソ」という言葉しか持たないミチコですら「犬」を見ると笑うのだ。ここにこそ、インポッシブルな笑いの可能性があるのではないかと思う。とは言えしかし、この作品ではその犬すらも「壁」になってしまうのだが。
⚫︎このような主題を持つ作品は本来、海外でも上演可能な、普遍的な題材や形式であるべきではないか、ドメスティックなネタ(あるいは、ドメスティックな「感覚」)に基盤を置くようなあり方をしているのは主張と矛盾するのではないか、という批判もあると思う。しかしぼくは、前述したように、そこにあるアイロニーにこそ、上から目線の左翼笑いとは異質な、この作品をささえる基本的な感情があるように感じられた。なんだかんだ言っても我々が「この内側」にあることは否定できない。しれっと、あたかも「外」に立っているかのような態度は取れない。しかしそれをそのまま受け入れることもできない(作中の「ミチコ」がそうであるように)。自分が存在できるごくささやかな場所を確保するためにこそ必死にとにかく毒を吐きまくる、という感じ。