⚫︎Netflixで『ぼくたちん家』、第六話。話が進むほどに、このドラマが好きになってくる。前にも書いたけど、素朴すぎるといえば素朴すぎる。悪い人が一人も出てこない、いい人たちばかりのお花畑ドラマとも言えるし、時々、道徳的啓蒙ドラマみたいになっちゃってもいる。でもまあ、それでいいのじゃないかと思う。
光石研が、もっと悪巧みをする人なのかと思ったら、たんに、ただただ情けないだけの人であった、というところが素晴らしい。逃亡している麻生久美子が、娘の元へ帰らずに逃亡をつづけるていることや、逃亡先でキーホルダーを集めていることに、何か隠された意味があるのかと思っていたら、何も隠されてはいなくて、字義通りの、そのままの意味しかなかった、というところも素晴らしい。
(麻生久美子の、あまりと言えばあまりにしょぼい「逃亡の目的=夢」のしょぼさが素晴らしくて、感動してしまった。)
大きな事件も問題もなく、策略を巡らす人もいないし、決定的な対立構造もない。恋愛要素はあるが、穏やかなもので、ドラマチックな感じはない。そして、出てくる人は(ダメな人であったりはするが)、皆いい人ばかり。構成として、仕込まれた複雑な構造があるわけでもない。古いアパートという舞台があって、さまざまな年代、さまざまな事情や背景を持つであろう、さまざまなキャラクターがいて、しかしそのすべてが「いい人」たちで、小さな波乱はあるものの、基本として、みんなでわちゃわちゃやっている。それだけでドラマになるし、それだけでじゅうぶんに面白い。
(張り込み中の警察官が、張り込みの対象者たちから焼き芋をもらったりすることは、善人だけではなく悪人がたくさんいるリアルな世界では絶対にダメなことなのだが、いい人しかいないこのドラマの世界ではアリなのだ。)
ここで、手越祐也の元彼が、ちょっと嫌なことを言ったりする人だったり、ゲイ専門のパートナー紹介所の女性が、杓子定規で融通の効かない人であったりすると、空気がちょっとピリッとして、ドラマとしてスパイスが効くかな、みたいなことは考えず、彼も彼女もみんな穏やかでいい人なのだ。
(パートナー紹介所の女性は、及川光博には「人生は恋と革命です」みたいなことを言うのに、手越祐也の元彼には「恋愛のない人生もいいですよ」みたいなことを言って、一貫していないようだが、彼女はおそらく、相手がどんな人で何を求めているのかが直観的にわかるのではないかと思う。)
(何話だったか忘れたが、トー横キッズの仲間たちの一人がいきなり受験勉強を始めて、ここでちょっと不穏な空気が流れるのかなと思ったら、そんなこともなく、彼女の「眉毛のための受験」は仲間たちにすんなり受けいられる。)
(今回、特に素晴らしいと思ったのは、麻生久美子の逃亡の目的・夢が、「え、ほんとにそんなことなの ! 」というようなショボいことであったことだ。そしてこの「ショボいこと」に、麻生久美子が演じる人物の存在の重みが乗っかっている。それが肯定されている。つまり、ショボいことは、全然ショボくない。四十七都道府県分のキーホルダーが、麻生久美子の存在を肯定する。こんな脚本を書ける、松本優紀という人の今後の活動に期待しないではいられない。)
(いや、そもそもからして、中学生をたった一人置き去りにして自分の都合で逃亡を続けている麻生久美子や、自分の娘をまともにケアしようとしない光石研は、あまりに無責任だし、いい人だなどはとても言えない、徹底してダメすぎるダメな人ではないか、という話で、それは設定の「穴」のようにしてある。ただ一応、エクスキューズとして、麻生久美子とアパートの大家である坂井真紀の間には一定の信頼関係があって、娘を坂井真紀に一時的に預けているという感じが麻生久美子にはある、ということだろう。)
(「いい人」という言い方はやや危ういかもしれない。ぼくは捻くれているので、いかにも善人ぶったキャラクターを見るとまず胡散臭いと感じる。「いい人そうに見える人」は、「いい人そうに見せる」ことを利用して「悪いこと」をしようとしている人だと、まず思ってしまう。最近、そういう人が多すぎる、という気もする。ベタに「いい人」は、別に「いい人そう」に見せる必要がないので、いかにも「いい人」っぽくは見えない場合が多い。「いい人」は大体「いい人そう」ではない。逆に、「いい人そう」な人は大体「いい人」じゃない。このドラマに出てくるのは、悪い人にもなれないくらいにダメな人、くらいの感じか。)
(だから、このドラマの特徴は「悪意」と「隠された策略」の不在、ということだろうか。)