2025-11-24

⚫︎後出しジャンケンは誰でも勝てる。相手がグーを出したことがわかっている状況ならば、チョキでは負けるからパーを出そうという知恵がありさええすればいい。

すでにヒットしているものに対して、それがなぜヒットしたのか、と問うことは後出しジャンケンに等しい。結果は出ているのだから、どうとでも言える。何をいっても間違いではないし、ということはつまり、何をいっても正解ではない。

ヒット曲の共通点、のようなものを抽出したとして、では、それと同じ要素を取り入れた曲を作ればヒットするのかといえば、そんなことはない。後出しジャンケン仕入れた知恵は、次のジャンケンでは使えない。

言説に意味があるとしたら、少なくとも、ヒットするより前に「これはヒットするだろう、なぜならば…」と言えなければ意味がない。それができれば多少の説得力は生まれる。しかしそうであったとしても、偶然のまぐれ当たりでしかないかもしれない(「まぐれ当たりではない」と証明することはできない)。

スポーツやゲームでは、同じ状況、あるいはほぼそっくりな状況が何度も現れるので、経験や記録がストックされ、このような状況ではこのように振る舞うことによって「勝ち」の確率が上がるという分析は可能だ。しかし「現実」において、過去と「ほぼ同じ状況」が起こることはないと考えていいだろう。状況には常に過去にはなかった新しい不確定な要素が付け加わっており、故に、歴史や過去からの「学び」は限定的なものにしかならない。

これはまったく一般的ではない、ぼくの独自解釈(独自定義)でしかないが、「批評」は後出しジャンケンであることを拒否しなければならない。少なくとも、ヒット以前のヒット予想なようなものである必要がある。つまり、未だ確定されていない、あるいは把捉すらされていない、新しい価値や要素について探る語りである必要がある。

アカデミズムは、すでに価値や評価が確定したものについてしか語らない(すでに評価が確定した対象の「新しい側面」について掘り起こして語るのが人文的なアカデミズムだろう)。あるいは「考察」班は、すでにヒットしたコンテンツか、少なくともメジャーな領域で作られたものにつついてしか考察しない。しかし批評は、未だ何物ともわからない、不定形な何かを指し示して「ここに検討に値するなにものかがある」と宣言し、それについての検討を重ねる。それは未来への予想(期待)や「賭け」がふくまれている仮説であり、そこにはギャンブルの予想屋や占い師に近いいかがわしさがあり、故に間違えることも多い。しかし、「間違えることができる」ということは「どうとでも言える(間違えることができない)」後出しジャンケンに対する優位であると考えられる。

(批評が、なにかしらの評価や価値を確定するような権威・メタ言説であってはならないと、ぼくは考える。価値を確定するのではなくただ吟味する。昨日の日記との関連でいえば、「象徴的な価値」ではなくあくまで「芸術的な価値」とともに、ベタなものとしてある。)