⚫︎「ぼくたちん家」六話、七話をNetflixで。とても素晴らしい。
(間違い、七話、八話だった。)
この、善人しか出てこない幸福なファンタジー世界に、六話(ではなく七話)では「死」、七話(ではなく八話)では「社会制度(法)」という、避け難い「現実」が侵入してきて楔を打つ、という感じか。
たとえば、同性カップルにかんしては、決して十分とは言えないにしろそれを支援する社会制度が存在する(つまり、ある程度は社会に受け入れられている)が、「擬似家族(偽親子)」にかんしては、それを支援する社会制度は存在しない(「社会」はそれを受け入れていない)。ゆえに、手越祐也と及川光博の関係には一定の社会的な認知が得られるが、及川光博と白鳥玉季との関係は「社会」が許さない。
この部分を、このドラマは、今まではふわっとした感じでなんとなく曖昧に誤魔化して成立させてきたが、ここを突っ込まないまま終わるわけには流石に行かない、ということだろう。ゲイのカップルが養子を迎入れる可能性(社会規制度)については、ドラマ内でも何度か言及されてきた。しかしこのドラマでは、白鳥玉季には両親が存在し、(父はともかく)彼女は「母」と暮らすことを願っている。白鳥が及川と擬似的な親子関係にあるのは、逃亡中の「母」が帰ってくるまでという期間限定の「仮」の措置でしかない。
このドラマでは未だ、横領犯であり逃亡中である「母」の位置が不確定なままであり(「母」は「法」によって罰せられるのか、それとも何か事情があって実質的に無罪なのか、あるいは情状酌量的な結末があり得るのか、など)、この「母の位置付け」が確定しない限り、白鳥と及川の関係は宙吊りにされ、偽親子であるという「違法状態」のままであるしかないだろう。
(及川と手越には彼女を養子として迎え入れる気持ちがあっても、白鳥の気持ちとしては納得できず、拒否するだろう。)
及川からすれば、少なくとも「母の位置付けの確定」があるまでは、自分が「偽父」としての役割をまっとうする責任があると考えるだろう。しかしそこに警察(法・社会制度)が介入してくれば、それは「違法」でしかなく、正しい社会制度を発動させて、白鳥は養護施設で保護されるべきだということになる。
ここに、ファンタジーとしての「幸福な擬似家族(の可能性の提示)」と、現実的で、社会的、法的に「正しい制度の運用」との軋轢が生じる。これまでは、さまざまな事象の折り重なりによって、アジール的な治外法権の特区として「井の頭アパート」という空間が成立してきたが、このアジールもまた、社会的な制度の後ろ盾のまったくない宙吊り的で一時的な奇跡のようなもので、その持続性は保証されない。
だからこのドラマはおそらく、「幸福で奇跡的な(ファンタジーとしての)擬似家族」と、現実の、「法的、制度的な社会のありよう」との間の軋轢を(この両者の関係を)、どのような形で折り合いをつけるのか(または、つかないのか)が、終盤における重要なモチーフとなるのではないか。
それはそのまま、虚構と現実との関係にかんする考察という側面を強く持つだろう。