2025-12-20

⚫︎RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾vol.22」、および忘年会。保坂さんは冒頭近くで来年自分は70歳になるという話をした。古参の保坂読者も50歳代、60歳代になるだろう。しかしこの「思考塾」という場には、20歳代から60歳代くらいまでの世代の人がほぼ満遍なくいて、女性率はやや低いかもしれないが、それも半々よりはやや少なめというくらいで極端に少ないということはない(あくまでぼくの「見た感じ」の判断でしかないが)。こういう感じが持続的に存在いしているのがすごいといつも思う。

サザンオールスターズのライブには大勢の人が集まるだろうし、中には若い人もいるだろうが、主流は圧倒的に50歳代、60歳代だろう。また、ジュリーのコンサートのお客さんの年齢層は高めだろう。それを考えてもなかなかないことではないか。

そして不思議なことに、(その後の懇親会で)こういう集まりに割りといがちな人、コネを作りにくるような上昇志向の強い人、一家言あって何かと説教を垂れたがる人、周囲の注目を自分に集めないと気が済まないカリスマ志向の人、あるいはカリスマ的な人を「推したい」人、などがほぼいない。いつもいる人ばかりでなく、常に新しい人もいるが、その感じは変わらない。だからぼくもそこに存在することができる。それは保坂さんが、自分の周りには「注目を集めて瞬く間にのし上がっていく」みたいな人がまったくいない、と口にすることと関係しているように思う。

このことと、保坂さんの言うマイノリティ像とは繋がっていると思う。わかりやすく社会的な「負の印」を負った人というより、「言いくるめる側」と「言いくるめられる側」だと常に「言いくるめられる側」にいる人。「議論したらいつも負ける」人、そもそも「相手を論破する(議論に勝つ)つもりがない」人。

(それは、社会運動的な立場からすると「戦わない人」と批判されるのかもしれないが、しかし、「そのように存在していること」そのものが、マジョリティに対する対抗なのだという側面があることを強調したい。)

(他方で、「戦わないと存在できない人」がいることは認識しているつもりだ。たとえばジョナス・メカスは、インディペンデントな映画を「存在させる」ために、アメリカでは誰よりも攻撃的・戦闘的な批評家であり、アクティビストでもあった。そうあることを「強いられた」。しかし、批評家として攻撃的なメカスは、映画作家・詩人としてはまったく攻撃的ではない。)

これは保坂さんの話からズレてしまうが、VECTIONでは「議論なし」の民主主義はいかに可能かということをいつも考えている。多くの人は、「議論」は良いことだという前提に立っているし、議論や熟慮こそが民主主義の根幹だと考えている。しかしVECTIONでは、そのような前提に大きな懐疑を持っている。議論は基本的に極めて暴力的で抑圧的なのではないか。議論では、議論に長けた人が反論しようのないロジックを立てて、納得せざるを得ないような形で「納得」をごり押ししてくる。違和感があっても、それに対抗するためには、対抗し得るロジックを立てなければならない。それが立てられなければ言いくるめられる。しかも、力で押し切ったわけではなく、あなたも納得したでしょうという形で、「強いられている」という事実が消されてしまう。

(「議論」が必ずしも悪だということではない。議論に長けた人同士の議論には大きな意義があるし、創造的でもあるだろう。しかし、すべての人が議論に長けているわけではないのに、「正しい前提(正しいプロセス)」として「議論」が使われる時に、それが暴力になる。)

だからこそ現状では、議論に長けた「正義の人(代表的知識人)」が、議論が得意ではないマイノリティに変わって、マジョリティのロジックを押し返す、マイノリティに寄り添った「別のロジック」を立てて抵抗する(たとえば、批評家・運動家としてのメカスの振る舞い、あるいはフェミニズムなど)。このこと自体は、現状の社会の中では必要だし重要なことだ。しかしおそらく、保坂さんが言いたいのは、それはもう「小説の言葉」ではないし「小説的な運動(生)」ではない。もっと言えば、それはすでに「マイノリティの論理」ではないものになっている、ということではないか。

⚫︎カフカの「歌姫ヨゼフィーネ」について。保坂さんによるとこれはカフカが生前に発表した最後の小説ということだった。つまり、我々が今読んでいるカフカの小説のほとんどは日記やノートに書かれた(残された)草稿だが、これはカフカ自身が校正もした「決定校」である、と。そのことは知らなかったが、ああ、なるほどと思うところはあった。ちょっとギチギチに「決めすぎ」な感じがあり、同時に「要約できなさ」「解釈できなさ」においてカフカの作品中でも上位にあると思う。

2021年に東工大で13回連続の「文学」の講義をしたのだが、その時のカフカ回のために「ヨゼフィーネ」を詳細に読んだ(結局、ヘヴィーすぎると思って授業では取り上げなかったが)。その時、カフカの他の作品に比べても、読んでいてちょっと辟易するくらいの高い密度と執拗さを感じた。「変身」などはさすがにポピュラーなだけあって読みやすい感じがあるが、「ヨゼフィーネ」は、飛躍も着地もないまま、ねちっこい思弁的なロジックのアクロバットが、宙吊り状態でいつまでもいつまでも延々と続いていくという感じで、圧倒されるとともにとても疲労させられた。2021年8月13日の日記にぼくは次のように書いている。

この小説を貫いているのはイメージでも物語でもなく論理で、その論理は、否定、反転、逆説(逆接)であり、それが、一つの文のなかにも、文と文との関係にも、エピソードとエピソードとの関係にも、くり返し、くり返し、仕掛けられている。仕掛けられている、というより、カフカは、まず何かを書いて、それと否定、反転、逆説的な関係にある要素をそこに付け加え、さらにそこに否定…を加えていく、ということを、様々なレベルで、延々とつづけることで、この小説を書いたのではないか。まるで、自然言語で書かれた長大な数式を追っていくようで、文庫本で40ページ程度の小説を読んだだけで圧倒されてぐったりとしてしまった。あらすじが言えない(追えない)のも、安易な寓意に収束されないのも、カフカがひたすら論理によって細部を繋げて、積み上げているからではないかと思う。ここで論理とは、全体を見通すような論理ではなく、パーツとパーツとを、その都度、否定、反転、逆説によって繋いでいくことによって、長大な(数学者の好まない、美しくない、ツギハギで不格好な)数式のようなものを作り上げるということだ。

とはいえ、全体としての「言いたいこと」がないわけではない。カフカの多くの作品においては、よそ者が、村的、共同体的な世界に触れるという出来事が書かれる。(…)だけど「ヨゼフィーネ」は、共同体の内部の者の視点(どちらかというと歌姫反対派)から、自らの一族と、その一族の特権的な存在である歌姫が描かれる。共同体にとっての歌姫の重要性、共同体と歌姫との微妙な関係、そして、共同体に対する歌姫の闘いと、その敗北。共同体は勝利し、歌姫は忘れ去られる。

通常と逆側の視点であるからこそ、ここでカフカは、容易に分かりやすいイメージや意味や解釈に解決されないように、徹底的に、論理的に「逆」を積み重ねる。読んでいて、あるイメージに納得しそうになると、それはほとんど常に、次のところで否定されたり逆転されたりする。~に非ず、~に非ず、~に非ず、と。だから、意味やイメージの流れ、物語的展開の流れにのって読むことができなくて、その都度、一行一行、前と後との論理的関係を確かめていくというようにしか読めない。だがこれは、たんに意味への着地を拒否しているのではなく、否定を限りなく積み上げることで、その隙間(余白)に出来る形を示そうとしているのだと思う。

歌姫ヨゼフィーネは、共同体にとって重要な存在であり、また不要な役立たずでもある。ある時期の「日本の批評」では「撞着語法」が盛んに批判されたことがあった。「輝かしい闇」というようにして矛盾する語を繋げることで「いかにも意味ありげだが曖昧な雰囲気」を醸し出す表現が(実質的に「何も言っていない」に等しいと)否定された。しかしここでカフカがやっているのは「意味ありげ」どころか、徹底して《~に非ず、~に非ず、~に非ず》を積み上げることで、結ぶことが可能な像や意味を廃棄するとともに、イメージのない、しかし強く惹起される感触を立ち上げて、それを共同体と個とのあり得る「一つの関係」のあり方として提示する。その感触は要約も解釈も拒否するようなもので、それを説明しようとすると「歌姫ヨゼフィーネ」をまるまる全部反復するしかない。

共同体と個との関係を、要約も解釈も強く拒否するような、しかし圧倒的な強い感触を惹起する文の連なりによって表現する。保坂さんの言う「書くことのマイノリティ」というか、あくまでマイノリティとして書く、というのはこういうことなのではないかと思う。

⚫︎掟の門の門番の問題。新人賞などに応募するとき、みんな、無意識のうちに門番(選考者)の顔色を意識してしまって、そのことが「構え」を固くしてしまう。門番の顔色など無視して、というか、門番の存在を意識してしまうと顔色も気になってしまうので、門番など存在しないかのように、ただすうーっと門の中に歩いて行ってしまえばいい。それはまったくその通りだと思う。それが「掟の門」を抜ける唯一のやり方ではないか。

昔は、大江健三郎の小説を読んで(とてもここまではできないので)自分が作家になるのは諦めた、とか、村上春樹が出てきて諦めた、とかいう人がいたが、そういうのではなく、⚪︎⚪︎を読んで、これくらいなら自分もできそうだと思って書き始めた、と思わせる小説の方がずっといい小説ではないかと保坂さんが言っていたのはまったくその通りだと思う。昔は、抑圧して萎縮させる人が多すぎた。「滅多な覚悟で映画に近づくな」みたいなことを言ったりして。それは既得権を守るための態度でしかない。

⚫︎「日記」は、誰にも宛てられたものでないことによって、かえってある種の検閲を内面化させてしまう傾向があるが、具体的な(信頼できる)宛先がある分、「手紙」の方が内的抑圧や内的検閲から自由になり得るのではないかという指摘には、なるほどと思った。