2026/01/02

⚫︎U-NEXTで、コッポラの『メガロポリス』を観た。妙な言い方になるが、予想した通りにびっくりするほど面白くなかった。冷酷な言い方をすれば、悪い時のコッポラが全部出ているような感じ。しかし、だとしても、この作品を簡単に否定できるかといえば、そうではない。コッポラがこんな映画を作ろうとした、というか、「作らなければならなかった」理由と必然性というようなものがあるだろうと思う。

その一つは、今、世界が(そしてアメリカが)こんなに酷い状況であること。もう一つは、自分の死が遠くないことを意識した人が、(自分の死後にも存在する「この世界」に対して)何を考え、どう振る舞うのか(何を成し得るのか)、ということ。この二つを考えると、穏やかな晩年を捨てるように、私財を投げ打って、こんな映画を作ろうとして、実際に作ってしまったということについて、その行いについて、敬意を感じないではいられない。でもその上で、やっぱりこれは(前述した「二つの理由」のどちらとしても)違うのではないかと思わざるを得ない。

映画の終盤に、銀行王であるすっかり年老いたジョン・ヴォイドが、自分を陥れた野心家の若い妻オーブリー・プラザを、最後の力を振り絞るようにして(まさに一矢報いるように)矢を射って殺害するのだが(映画ではその「一矢」が世界を好転させる一因となる)、コッポラとしてはジョン・ヴォイドのような気持ちでこれを作ったのかもしれない。だけど、コッポラのこの映画が、ジョン・ヴォイドのように「一矢を報いる」ようなものであり得るとは、どうしてもぼくには思えない。この映画が、現状への批判と、未来へ向けて射される一筋の光となり得ているようには思えない。

身も蓋もないことを言えば、このような物語(このような主題)を提示するのに、本当にこんな大袈裟な映画にする必要があったのだろうかとも思う。十数人の俳優と、ホワイトキューブのような小さなスタジオ、最低限の書き割り的なセットとプロジェクションマッピングの技術があれば十分に実現可能だし、その方がずっと先鋭的な表現になったのではないか(高橋洋映画美学校で作る映画をイメージしている)。コッポラはロジャー・コーマンのスタジオの低予算映画から出発したわけだし。しかしコッポラは決して「貧しい芸術家」ではなく「(資本主義の世界で)成功した実業家」でもあるので、作品に巨額の私財を投じるという蕩尽的行為そのものによって「ガチ」であることを(他人に対してだけでなく自分自身に対しても)示す必要があったのかもしれない。また、この映画を超大作として作るということによって、自分を育て、生かしてくれてきた「アメリカ映画」に対する敬意と批判的な落とし前とする、という気持ちもあるのかもしれない(勝手な妄想)。

この映画が、(サイード・大江が言うような)「晩年の仕事」の過激さを纏うことに成功してはいないようにみえることについて、老人が「自分の生」の落とし前と「自分に死後も存在するこの世界」に対するメッセージとして行う「捨て身の振る舞い」について、しかしそれが「現在のこの世界」に対して必ずしも有効ではない場合も多いことについて、しかしそれを決して軽くみるべきではないことについて、そして、仮に自分に晩年といわれるような時間が与えられたとして、その時にどう振る舞えばいいのかについて、そういう問いをずっと突きつけられているような映画ではあった。

しかし面白くはない。

(追記。すごく当たり前のことを言えば、莫大な予算と人材、そしておそらく時間もかけて撮影されたであろう豪華な場面の数々が、とっかかりもなく、すごい速度でただただ流れていく感じなのはどう考えても勿体ない。きっと、上映時間を140分に収めるためにこんなことになってしまったのではないか。4時間バージョンが作られれば、少なくとも現状よりはかなり面白くなるのではないかと思うし、コッポラ自身がプロデューサーでもあるのでそれは可能だと思うのだが。『夢の涯てまでも』も5時間バージョンはちゃんと面白かった。)