⚫︎神奈川大学みなとみらいキャンパス米田吉盛記念ホールで、『いもの国風土記』(井上文香・黒川幸則)、第一部から第三部を観た(第三部は初公開)。このような映画でネタバレというのは変な話だが、この映画の第一部と第二部を観ている人で、第三部を前情報なしで新鮮な驚きと共に観たい人は以下の文章は読まない方がいいかもしれない(と、一応ことわっておきます)。
⚫︎もし、この映画が黒川さんの単独監督作だったら第三部がこのようなスタイルになることはなかっただろうと思うし、また、今後の黒川さんが単独でこのようなスタイルの映画を作ることも、おそらくないのではないかと思う。つまりここでは一回限りの「出来事」が生じていて、それが井上さんとの共同監督であることによって起こった、共同作品であることの意味だろう。第一部と第二部は、共作とはいえ(映画作りの専門家である)黒川さんのスタイルが濃く出ていると思われるが、第三部ではまさに「井上+黒川」のスタイルが出現したのだと考えられる。
この映画は、井上文香さんが自分の子供の頃の記憶に基づいて作った絵本ZINE『青の時代』が元になっていると聞く。絵本をきっかけに黒川さんが舞台となった川口市領家を訪れ、その土地を気に入ったことから始まった、と。しかし、にもかかわらずこの映画の一部と二部には『青の時代』の舞台になった井上さんが子供の頃に住んでいたという工場の建物はあまり出てこない。その代わり、その工場の大家さんだった、すぐ隣の敷地にある不二工業という鋳物工場を中心としたドキュメンタリーになっている。井上さんの父親は、その不二工業の所有する土地を借りて(鋳物工場ではなく)精密機械の部品を作る工場をやっていた。『青の時代』はそこでの記憶について描かれている。その建物は、鋳物のための「木型」を製作する工場が閉鎖するというので、そこの「工具と職人とを丸ごと不二工業が引き継いだ」という木型を製作する工房となった姿として、第二部で少し映し出されるばかりだ。その、木型工房となっている建物の入り口のガラスを不二工業の職人さんが誤って割ってしまうというところで、第二部が終わる。
しかし、このような事実関係は第三部を見ることで初めてわかる。第一部と第二部は事情を説明しない。なぜ舞台が川口市領家であるのか、なぜ鋳物工場なのか、なぜ他の工場ではなく不二工業なのか、についての説明はなく、いきなり「不二工業」が取り上げられる。取材する男女の声と、取材を受ける男女の声が聞こえてくるサウンドトラックの言葉から、取材する女性が、子供の頃にその工場のすぐ近所に住んでいたらしいということはわかるが、それ以上の説明はないまま映画は進行する。木型工房として映し出される場所が、取材者の女性(井上文香)がかつて住んでいた場所だということも、一部と二部では語られない(無茶苦茶カンのいい人なら「察する」かもしれないが)。一部と二部とは、そのようなスタイルが貫かれている。
第一部と第二部は説明しない。映像と音声によって提示される出来事が、声を伴う言葉によって語られるエピソードが、断片的に、矢継ぎ早に生起し、折り広げられ折り畳まれていく。立ち上がる出来事やエピソードは時系列に沿うのでもなく、因果的な関係が線や流れを追うのでもない。第一部では主に鋳物工場を支えた三代の女性たちが語られるが、日常のおしゃべりのように話があちこちに飛ぶし、第二部では鋳物を作るための工程が若干説明されるが、それも工程順(時系列順)ではなくバラバラに提示されるので、すべてを記憶していて後から頭の中で再構成でもしない限り「鋳物の作られ方」がわかるわけでもない。特に第二部では、人の喋る声と工場の作業による爆音や鳥や風の音が同等に扱われるため、しばしば人が何をいっているのかよく聞こえない。なんとか聞こえてくる言葉の端々から「こんな感じのこと」を話しているかな、となんとなく察することができるくらいだ。時間順でも因果関連でもなく、大きな流れの文脈に配置されていない一つ一つの出来事やエピソードを繋いでいくことで生まれる流れに対し、その都度その固有の感触に触れていくように観るしかない。そこから感じ取ることのできるのは、因果的な物語であるよりは、その場に生起しているであろう空気や熱気や匂いのようなものであり、人々の関係の雰囲気のようなものであり、それはある時代、ある場所、ある家族から発せられる(具体的であり抽象的でもある)空気や匂い、ざわめきの感触であろう。これはある意味で頑固なシネマのリアリズム主義者である黒川さんのスタイルと言えるだろう(質疑応答ではジガ・ヴェルトフとかジャン・ヴィゴという名前が出ていた)。
⚫︎しかし第三部が始まるといきなりフレームが開放的になって(青い空 ! )、そしてBGMが流れている(それも、明らかにBGM的なBGMだ)。その時点で、え、音楽、まじか、となる。これは何か根本的に「(一部、二部とは)違うもの」が始まるのだな、と察せられる。それでも序盤は、第一部、第二部との関連(不二工業の人たちとの関連)がみられるのだが、話の展開も次第にそこからかけ離れたものになっていく。第三部のタイトルは「青の時代」で、ここでようやく井上さんの絵本ZINEとの関連が深くなっていくのかと思いきや、始まってすぐに、この建物は火事で焼けてしまいました、となる。
ただぼくはその事実を知っていた。2022年の『にわのすなば』公開時に黒川さんから、この映画と同じ川口の領家でドキュメンタリーを撮っているのだが、コロナで撮影が中断している間に撮影しようと思っていた建物が(本格的な撮影を始めるより前に)火事で焼けてしまったと聞いた。だからドキュメンタリーとして「青の時間」を撮ることはできないだろう、と。一部、二部にその建物があまり出てこなかったのも、たんに撮っていなかったからだろう。それで第三部は、井上さんの子供の頃の記憶ではなく、井上さんの父親と母親の過去と現在を映し出すという流れになっていく。
だがそのスタイルは不二工業(入野家)の来歴を語るやり方とはまったく異なる。一部、二部ではインタビューに答える不二工業の社長と妻の語りが映画を先導し、二部ではそこに職人たちの声も混じるが、それらは短く切り刻まれてモンタージュされている。声の主体である社長夫妻の姿は、引用される家族アルバムや家族ムービーに映り込んでいる以外は現れない(取材時に撮られた映像はない)。対して三部では井上さんの父や母の姿や語りが映像としてじっくりと捉えられており、特に父の語る姿と声が映画の基調となっている。一部、二部の背景事情も含め、父や母の来歴がある程度の因果連関が追える程度に語られるし、精密機械関連の専門用語などは字幕で説明されたりする。二部にも鋳物を作る過程を述べる字幕はあるが、それは映画の語り(エクリチュール)の一部をなすものだ。対して三部の字幕は「説明」のためのものだ。開放的なフレームと背景音楽と説明字幕。これだけでこれまでの黒川作品を追ってきた人にとってはかなりの驚きだろう。
工場の種類も、比較的大きなものを作る鋳物工場から、小さな精密機械の部品を作る工場へと移行する。語られる内容も、酒を飲んで工場に来る人がいる、給料が入ると来なくなる人がいる、給料日にすべてギャンブルで使い切ってしまう人がいる、など、二部では職人のキャラクターを示す豪快なエピソードが多いが、三部では、(細かな文言は覚えていないが)やると決めて本当の本気になったら実現できる、といった、強い意志と自分の技術や業績に対する自負を熱く語る職人のストイックな側面が前面に出ている。女性たち(妻)の話も、一部で語られる、騙されて東京に連れてこられて結婚させられた、昼間から焼肉を食べビールを飲んでいた、という昭和の豪快(?)なエピソードに対して、三部の井上さんの母は、詩の同人誌に参加していた、そこで「夫の作る機械が戦争に加担してしまうことを危惧する詩」を書いていたなど、なんというかインテリっぽい。一部、二部は(アルバムの写真や家族ムービーをのぞいて)取材者と取材対象という距離で撮られた画像で構成されるが、三部の(すべてではないが)多くの部分は、父と娘、母と娘という関係の中で撮られた映像からなり、「ある家族」ではなく「私の家族」として、内輪に踏み込んでいく感覚が強く出ている。
語る父は、一つは民俗学者の取材に答えるという公的な姿であり、もう一つは、長年の習慣である散歩に娘が同行するという形で撮られた私的な姿であるという、二つの姿があり、後者によって『にわのすなば』にもつながる「散歩映画」という側面が追加される。一部、二部では(洪水のエピソードなどもあるが)主に工場とその周辺だけが対象であったが、川口という街をもう少し広いスパンで見ることにもなる。一部、二部との最も大きな違いは、一部、二部には(鋳物)工場という具体的な場所があり、そこにはさまざまな物があり、鋳物を生産するという行為が行われているが(故に、そこに視点が定められるが)、三部ではもはや(精密機械)工場はないという点だ。そこで、一方では「人(=プライベートな関係)」にぐっと寄っていき、もう一方では散歩を通じて「街」へと視線が拡散していく(青い空、川、鳩のいる「別の」鋳物工場、公園…)。この違いが根本的に異なるスタイルを要請したのではないか。
第三部は、比較的受け入れやすい物語の枠に沿って進行する。しかしそうだとしても、父や母の存在が物語の中に回収されるのではない。特に、父の声、父の語り、父のしぐさ、父の身体は、物語の流れを経たのちに、改めてそこには収まらない他者として再発見されているように思われた。実際、(精密機械の用語についての説明的字幕があっても)話し続ける父が何を言っているのか、本当のところよくわからない。ただそこに、ひたすら歩き、ひたすら熱く語る人がいる、ということが伝わる。
⚫︎映画の中の「絵」の扱いについて。絵の使い方で、絵を描いた井上さんと、「映画の人」である黒川さん、そして編集を担当した人との間でちょっとした対立があったという話が、質疑応答の時に出た。「映画の人」の方が、絵を絵として大切に扱い、じっくり丁寧に見せようとするのだが、絵を描いた人である井上さんは「それは違う」と主張した、と。ぼくも一応画家として、井上さんのいうことがわかると思った。
映画として撮影された途端に、絵は、映画の視点と映画の時間に組み込まれてしまって、それはもはや元の「絵」とは別物になる。だからむしろ、映画の都合で使ってもらった方が、その絵の良さがかえって生きるように、ぼくも思う。ストローブ=ユイレによる「正しい絵画の撮り方」よりも、ゴダールの「いい加減な絵画の引用」の方が、かえって「絵の良さ」が出ているように思われる。ストローブ=ユイレの映画がダメだということではないが。
(それは、ゴダールが引用するのが主にマネ的な絵画であってセザンヌ的な絵画ではないということにもよるのだが。セザンヌ的な絵画はどうやっても映画に撮りようがないと思う。)