2026/01/17

⚫︎中野のスペース「水性」で、『温室 / オンシル』(仮)予告上演。

三野新による映像作品『外が静かになるまで』とパフォーマンスの記録映像『息をし続けている』の上映があり、続いて、三野新 : 戯曲、山本浩貴 : 演出、石川朝日 : 出演による『温室 / オンシル』第一部の予告上演(リーディングによる制作途上報告公演的な試験的上演)がなされ、そのあと、三野新、山本浩貴に、大岩雄典と権祥海が加わって公開相談会。そして新年会。

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⚫︎『外が静かになるまで』。人のいないホテルの部屋に三人の声が響く(三人の声は一人の俳優によって演じ分けられているようだ)。一人は「私は眠っている」と言い、一人は「眠くてたまらないのに(外の音のせいで)眠れない」と言い、もう一人は外からカメラを持ち込んで「このカメラに向かって話せ」と二人に要求する。「このカメラ」とは、今、観客が見ている映像を撮ったカメラのことなのかははっきりしない。

帰ってから元になったテキストを確認すると、眠っているという声が「ベッド」、眠れないという声が「ソファー」、カメラを持ち込む声が「飛行機」とされている。映像には確かにベッドやソファーが映し出され、頻繁に飛行機の音が聞こえてくる。

(この後で上演された『温室 / オンシル』のテキスト(戯曲)でも登場人物(?)は、「置き石(石 / いし)」「有刺鉄線(鉄 / てつ)」「トラック」とされている。)

これはなんなのだろうか、と思う。擬人化なのか、それとも(『万延元年のフットボール』の荒ぶる弟が「鷹四」と呼ばれ、『限りなく透明に近いブルー』の沖縄出身の青年が「オキナワ」と呼ばれるような)「役割(キャラクター)」を示す象徴的な呼び名なのか。どちらとも微妙に違うようで、しかしオブジェクトそのものの声というわけでもないようだ。あるいは「人物1」「人物2」というのと大差ない、この声とこの声は別人だということを示す印くらいの意味なのか。そのどれでもあり得るが、決定的に「どれか」ではないように感じられた。

眠っているのが「ベッド」で眠れないのが「ソファー」、飛行機の音が外から聞こえる部屋に外からやってくるのが「飛行機」というのはわかりやすいと言えばわかりやすい。では、そのような「役割的な名」と、映像に映っているベッドやソファー、聞こえてくる飛行機の音との関係はどうなっているのかと考えると、そんなに自明ではない。映像に映し出された「そこ」にあるベッドが語っているのか、映し出された「そこ」には不在の、「ベッド」という名のもとで仮構(統合)された象徴的な人物が語っているのか。後者だとすると「そこ」にあるベッドと「そこ」にはいない(あるいは「フレーム内」にはいない)象徴的人物は、「どこ」にいて、(「その人物」や「そこ」は)「ここ」とどのような関係にあるのか。

(テキストには《ソファーの上でうたた寝をしていたソファー》などと書かれ、オブジェクト・ソファーと人物・ソファーが切り離されているようだが、映像ではその分離は明確ではない。)

(背景情報としては、この作品は米軍三沢基地がある青森県三沢市における取材から作られたという。つまり「そこ」は三沢市にあるホテルの一室であり、聞こえてくる飛行機の音は三沢基地に離発着する米軍機の音だろうと、ひとまずは考えられる。少なくとも「そこ」は「三沢市」という具体的な土地と密接な関係にあることは確かだろう。しかし「そこ」が他ではない三沢市であり、三沢市以外ではないとするなら、この映像から「三沢市であるという固有性の印」があんまり(「まったく」ではないが)見られないこと、「そのように」作られたこと、の意味がわからなくなるだろう。)

ベッドが「ベッド」と呼ばれる理由は、(女性の声で語る)彼女が「眠っている(眠りつつ語っている)」という以外にはないように思う。つまり、「語る主体とその内容(声と語り)」と「(テキストにのみ明記される)ベッドという名」そして「映像に映される「そこ」にあるベッド=オブジェクト」という三者は、極めてか細い微かな関係性によってのみ繋がれている。それらは、強い、必然的な繋がりによって結ばれているのではなく、弱く微かなつながりによって結ばれていることで「この作品」が形作られている(「それら」とは「テキスト=名」「映像=オブジェクト」「語り=声と内容」のこと)。であるならばそれらは、別の「か細いつながり」によって再編成され、別の関係による図柄へと展開していく可能性へと開かれているだろう。

安らかな眠り(本当に「安らか」なのかはともかく)とともに語る主体がその性質から「ベッド」と名付けられることで、それとの連想的対比から、(「外」が原因の)不安により眠れない主体が「ソファー」とされる。そこから導かれて映像にはベッド、ソファーというオブジェクトが映し出される。これは固有名であるより、語る内容の性質(キャラクター)に起因する集合的で象徴的な主体を指す名前に近く、名も、主体も、オブジェクトも比喩であるとも言える。だがこの比喩は強い喚起力・表現力を持つ比喩ではなく、映し出されるオブジェクトがありふれたそっけないベッドであるのと同様に、無機質でそっけない比喩だ。ありふれたそっけない比喩、ありふれたそっけないオブジェクト、ありふれたそっけないホテルの部屋。だから「そこ」は、ありふれたそっけない場所であり、固有のどこか(三沢市のホテル)であると同時に、それ以外のどこかでもありえ得るし、どこでもないどこかでもあり得る。

では「語られる内容」もまた、ありふれたそっけないものかといえば、そうではないだろう。そこにはある生々しさがあり、生硬ともいえるナマの現実の反映がある。その生々しさやナマさが、どこでもないようなホテルの部屋を三沢市と結びつけ、あるいは(アメリカとの関係下にある)「日本」と結びつける。そしてその「内容」の生々しさ、ナマさを持ち込むのは、主に「飛行機」と名付けられた語る主体の役割だろう。映像・音声のレベルでも、しばしば聞こえる飛行機の音が、ありふれた部屋に「三沢市」的な性質を帯びさせ、また「在日米軍基地」という存在を想起させる。

ベッドは「ここからもう出られない」といい、ソファーは「かつて天国(アメリカ)に住んでいた」が「ここ」へ帰ってきたという。どちらも「ここ」の住人だが、飛行機は「ここ(内)」でも「外」でもなく両者を行き来する。飛行機という名は米軍機(アメリカ)というだけでなくそのような比喩でもあろう。作中に「ミス・マタニティ」と呼ばれる「プロペラ機」についての言及があるが、この二語で検索すると「ミス・ビードル号」というプロペラ機がヒットし、それは日本(三沢)からアメリカまで初めて太平洋を無着陸で横断した飛行機の名だった。「飛行機」は、そのような「移動する飛行機の中」こそが《これまでもこれからも暮らす場所》であると語る。

(テキストでは、「飛行機」はカメラを持ち込むとすぐに部屋の外に出て「声」のみの存在となるが、映像ではそもそも三人とも「声」である。)

「そこ(ホテルの部屋)」は、青森県三沢市であり、また、米軍基地を持つ別の街でもあり得て、そして、そもそも在日米軍基地を持つのが「日本」だとすれば、日本のどこでもあり得る。「そこ」は、固有の歴史と特定の位置を持つ具体的な場所(三沢)であり、同時に、そことの類似性を持つ別の場所でもありえ(つまり「比喩的場所」であり)、それどころか(同様の条件下にあるという意味で)「日本」でありさえすればどこでもあり得るという抽象性をも持つ。「そこ」は、固有性のレベル、類似(比喩)性のレベル、抽象性のレベルという異なるレベルが共存・共立する場所であると言える。

この作品は、ドキュメンタリーやルポルタージュのような形式ではないし、明確な物語や政治的主張をもつのでもない。ある意味で回りくどい形式で語られている。このような形式で作られなければならなかったのは、具体的な「どこか」であり得、また「どこでも」あり得るというように、異なるレベルが共存・共立し得る場を開くためであり、そのような場こそが、「ここ」と「(無関係にも見える)ここ以外のどこか」を結びつける媒介的な場所となり得ると考えられているからではないか。

(つづく)