⚫︎(昨日から続く)中野のスペース「水性」で、『温室 / オンシル』(仮)予告上演。
⚫︎パフォーマンスの記録映像『息をし続けている』。
ベケットのとてもとても短い戯曲『息』を原案としたパフォーマンス。初演は2020年で、当時、歌舞伎町でホストクラブ(ホスト ? )とのトラブル(金銭的 ? 感情的 ? )が原因で飛び降り自殺する女性が多発した(作家自身がそれを偶然目撃してしまったこともあった、という)ということが発端となり、自殺者が実際に横たわっていた場所をリサーチして行われたパフォーマンス。それが2025年に再演されて、その時の映像だという。ただ、このような背景情報をまったく知らないまま観たのだが、(知らない状態で)晩年のベケットの、極端にミニマルな形式の戯曲の上演として、とても興味深く、とても良いの(適切)ではないかと思った。
(2020年初演時の短い映像がYouTubeにあって、帰ってから観たのだが、初演時は三野さんが一人でマイクとスピーカーを持ってやっていたようだが、それよりも、協力者と二人で行った2025年の再演の方が面白いと思った。)
カゴ型台車というのか、宅配業者がトラックから下ろした荷物を運ぶ台車に、ブルーシートに覆われた粗大ゴミのような大きな「何か」とスピーカーが積まれており、横長でコンパクトな電光掲示板が設置されている。それを、バフォーマンスの協力者である男性が、ガラガラと押して歌舞伎町を練り歩く。
(記憶で書くので正確でないが)電光掲示板にはまず「これから三野新によるパフォーマンスが行われます」といった予告的な文字が表示される。続いて、「10秒かけて息を吸う音と共に光が最も強くなる」「5秒そのまま」「10秒かけて息を吐く音と共に光が最も小さくなる」「1分間休み」という文字が順番に(機械的に)現れ、それが繰り返される。文字と同期して電光掲示板に表示される長方形の光の帯が、明るくなり、弱くなって消えたりを繰り返す。そしてスピーカーから、息を吸う音、吐く音(吸う音と吐く音との違いはよくわからないが)が、ノイズを含んで聞こえてくる。粗大ゴミのようなブルーシートの中には三野さんが隠れていて、マイクを使って「息を吸う」「息を止める」「息を吐く」「休む」を延々と繰り返している。
カゴ型台車が、風通しの良いというか、吹きっ晒しの、最低限の小さな舞台となり、その「舞台」が歌舞伎町という街の中を、「街の空間そのもの」を舞台の中に通過させながら移動していく。台車=舞台が街を通過していくと同時に、舞台の上を街の空間が通過していく。その舞台の上で、ベケットの最もミニマルな戯曲が、延々ループされて上演される。カゴ型台車も、ブルーシートも、電光掲示板も、歌舞伎町という街のなかでは「図」として浮かび上がることのないありふれた(馴染んだ・溶け込んだ)オブジェクトだろう。
だから「ここ(このパフォーマンス)」にあるのは、仮設の小さな領域と「息」だけであろう。
録音された赤ん坊の鳴き声が聞こえ、息を吸う音と共に舞台が明るくなり、息を吐く音と共に舞台が暗くなり、それでおしまいという、上演時間1分にも満たない、ほとんど空白のようなベケットの戯曲が、雑多なオブジェクト、多くの人々、無数の文脈が、とんでもない密度で折り重なって存在する歌舞伎町という場所に、みっしりした重なり合いの隙間に微かな空白を押し開くようにして、「現実」の中に小さな亀裂のようなものを作り出していく。最低限の小さく囲まれた(台車=舞台という)空間のなかで、電気的に増幅された、息を吸い、息を吐く「音」が、なけなしの「虚構の領域(演劇)」をか細く立ち上げる。息を吐き、息を吸うという生の最もミニマルな行為によって、息を吸い、息を吐くことのみがかろうじて可能になるような(そのためだけの)領域が開かれる。
歌舞伎町という場所の、圧倒的な、存在の過剰な「多さ」に対して、ベケットの戯曲の、圧倒的な存在の過剰な「少なさ」がかろうじて拮抗することで、ただ呼吸するためだけの小さな「虚構」の場が切り開かれる。逆から見れば、歌舞伎町という文脈が多重に交錯する存在の過剰さ(「具体性」の過剰さ)の場所だからこそ、ベケットの存在の過小さが意味(抽象性の具体的な手触り)を持った出来事として現れるのではないか。
(つづく)