⚫︎(一昨日から続く)中野のスペース「水性」で、『温室 / オンシル』(仮)予告上演。
⚫︎『温室 / オンシル』第一部の予告上演(三野新 : 戯曲、山本浩貴 : 演出、石川朝日 : 出演)について。まず、どんなしつらえの舞台によって上演されたのか(忘備録として)。
下図は、「水性」の基本的な概略図。あくまで概略であり、比例関係とか距離感はかなりいい加減(Googleスライドで適当に作った)。ウェブで探したが「水性」の見取り図は見つからなかったので間違っているかもしれない。出入り口の側は全面ガラス張り。

上の図の空間が、下図のような舞台として設られた。二つに分けられた客席が向かい合って、真ん中に机とイスが置かれる。机の上には、鉢植えの植物とスマホ、配達物のような紙の箱が置かれている。カウンターの前にはビニールによる膜が張られ、この膜にはカウンターの側から霧吹きによって湿りけが加えられている。この膜は通り抜け可能。

俳優の上演時の動線。

観客の視線の先に机とイスがあって、ここが主な舞台なのかと思いきや、このスペースの滞在時間は相対的に短く、上演は主にカウンターの前の領域で行われる。つまり観客はビニールの膜越しで向こう側の上演を観る。

カウンターの後ろ側で演技がなされる時、俳優はしゃがんでいて、観客からは姿が見えない(声だけが聞こえる)。

ぼくはこの位置から観ていた。

⚫︎開演前に、戯曲へアクセスできるQRコードの存在が告げられ、戯曲を読みながら公演を観ることが推奨される。だが、ぼくには観ながら読むとかは無理なので、戯曲は帰ってから読めばいいと思って、上演を観ることに集中する。石川朝日が一人で3人、あるいは4人くらいの人物を演じ分けているということはわかった。対話(?)する2人ないしは3人がいて、後から宅配業者のような人が1人が追加されるという役割と展開も大体つかめた。後から戯曲を読むと、最初から対話(?)しているのが「石(置き石)」と「鉄(有刺鉄線)」で、後から加わるのが「トラック」となっていた。
(この公演では存在しないが)ト書きには《置き石が積まれている石垣とそれを取り巻いたり無造作に置かれている有刺鉄線》と舞台装置が指定されているので、オブジェクトとして置き石と有刺鉄線が存在する舞台の上で、「置き石」と「有刺鉄線」である(?)/と呼ばれる(?)「役」を背負った俳優が出てくることになるのか、と。『外が静かになるまで』でも思ったが、「役名(テキスト・言葉)」と「役(語る主体)」と「オブジェクト」(と「(俳優の)身体」)の関係のあり方がとても不思議で面白いと思う。
(部屋の中で動かないオブジェクトである「ベッド」と「ソファー」に対して、動く乗り物である「飛行機」が「外」からやってくるという『外が静かになるまで』の構図と同様に、ここでも、「石」と「鉄」という動かないオブジェクトに対して、別の場所から、動く乗り物である「トラック」がやってくる。ただし、この作品では、「トラック」は、本当に別の場所から来たのか、ずっと「ここ」にいるのかよくわからない感じではある。)
⚫︎延々とくりかえされ続ける「再演」において、演じることを強いられている「役」から我々はどのようにして「降りる」ことができるのかという問題が、冒頭から、「告発」という強い言葉とともに語られるが(だがこの「役」の外からの「告発」それ自体が、すでに戯曲に書き込まれている「言わされる」の言葉なのだ)、このような主題系については(出演した石川自身がその一員でもある)Dr. Holiday Laboratoryによって極限までハードに追い詰められている。
⚫︎冒頭の「告発」部分の独白は、観客の視線の先にある「机とイス」の場で行われるが、それが済むと俳優はすぐに、ビニールの膜で隔てられた(観客からすると)向こう側へと移動して、カウンター前に置かれたイスに座って語りを始める。以降、「そこ」が主な上演の場となる。つまり観客は温室の外から温室の内側の劇を見るということなのか。しかし、戯曲の冒頭には《温室の中には壁がある》と書かれている(戯曲上では、これがまさに置き石と有刺鉄線によって作られた「壁」なのだが)。ならばこのビニールの膜は「温室の中の壁」であると考えることもできる。温室の内と外とを隔てる壁は「水性」というスペースの出入り口だろうか。いや、でも、「ビニールの膜」と「(戯曲上の表現)置き石と有刺鉄線の壁」はあまりに違いすぎるので、ビニールの膜はやはり温室の内外の仕切りで、スペース「水性」全体は、温室のある船(フェリー)と考えた方がいいのだろう。
どちらにしても空間は、ビニールの膜の内側(内の内)、膜の外で「水性」の内部(内の外)と、(「水性」の)「外」に三つに分けられる(出入り口側はガラス張りなので外はよく見えるし、外からも中が見えているから、上演中も「外」は意識される)。観客は、中間的な「内の外」という場所にいる、という感じだ。さらに、膜の内側にも、カウンターの前、カウンターの後ろ、スタッフルーム(?)という三つの層がある。
⚫︎戯曲には、《(置き石と有刺鉄線で作られた)その壁に守られるように、成長したナツメヤシが植えられている》と書かれているが、この舞台装置の配置がそのまま、戯曲での登場人物の役割を表現している。「石」と「鉄」は、ナツメヤシの幼苗を守る役割を持っている人物(?)として、虚構の時空に現れる。この「空間(装置)」と「役割」とのユニークな関係性といい、「役名」と「役」と「オブジェクト」との関係性といい、こういうところに三野新という作家の不思議な特異性を感じる。
しかしこの公演で、(「水性」という空間の制約や制作費の制約などがあってのことだろうが)山本浩貴による演出ではこのような空間と役柄との対応関係は一旦解体される。空間を(上手・下手という横の広がりではなく)手前・奥・さらに奥というふうに、奥行きとしての層に分節する。客席は、空間の奥行き方向に対して90度回転しているから、観客にとっては上手・下手と言えなくもないが、しかしそれは同時に建物の手前と奥という意味を強く持っている。
⚫︎戯曲では、舞台上は《温室の中》で、その温室は《フェリーの上》にあるとされている。だから舞台全体が「フェリーの上にある温室の中」なのだ。それに対し山本の演出では、「温室の中」と「フェリーの上だが温室の外」とが分けられている、と考えられる。そして「フェリーの上だが温室の外(内の外)」という中間地点に、舞台装置(机とイス)と客席との両方が置かれている。舞台の上(内)と舞台の外(客席)と空間を二つに分けるのではなく、舞台の内、舞台の内の外、外、と三つに分けて、客席を中間地点に置くことで、観客を「半分だけ」舞台に上げている、ように感じられる。
この空間配置は、観客もまた登場人物と同様にフェリーの上にいて、ここから(そして「役」から)《降りられない》のだ、ということを示しているだろう。そして、内側のさらに内側(奥の奥)としてスタッフルーム(?)の空間が、実際の外とはまた別の「仮の外(外のようで外でない)」の領域とされているように思われた。内の内(奥の奥)は外、というトポロジー的な反転。
⚫︎上演の冒頭で、「役から降りること」と「告発」についての長い台詞がある。だがこれは誰が語っているのか。「役から降りること」について語るのだから、登場人物(石、鉄、トラック)が語っているのではないだろう。語るのは、登場人物になる以前の誰かだ。しかし、それは戯曲に書かれているのだから、そこにいる身体=俳優自身の言葉でもない。
おそらくここが、Dr. Holiday Laboratoryとの違いだと思われるが、この言葉は観客に反射するように語られているのではないか。言い換えれば、この言葉=語りの中に、観客が自分自身を発見するような場所として、この「語り」があるのではないだろうか。誰でもない誰かの語る匿名の語りの中に、それを聞く観客が自分自身の姿を見出す、そのような「装置」として、冒頭の台詞がある。誰でもがそこに「自分」を見出すような、原・自分を問うような語りの形式として。だからこれはたんなる「言葉」であり、「言葉」でしかないからこそ観客はそこに自分を見る(ように、戯曲が「誘って」いる)、のではないだろうか。
(『温室 / オンシル』上演については、もうちょっとだけ、つづく)