2026/01/28

⚫︎ツタヤディスカスで借りたDVDで『アンドロイド版三人姉妹』を観た。

平田オリザ、作・演出の演劇は『冒険王』『バルカン動物園』の二つを、いずれも「平田オリザの現場」というシリーズとして紀伊国屋書店から出ていたVHSで観たことがある。90年代終わり頃のこと。それと、2019年に上演された『東京ノート』のインターナショナルバージョンをYouTubeで観ることができて、それも観た。これはわりと最近だと思う。だから、この『アンドロイド版三人姉妹』(2012年上演)も含めて映像でしか観たこことがない。

(90年代終わりに平田オリザにかなりハマって、お金に余裕がないのでビデオソフトは上記の2本しか買えなかったが、この二つはかなり繰り返し観たし、講談社新書から出た『演劇入門』も熟読した。戯曲集も買って読んだ。)

(2025年4月29日の日記では『バルカン動物園』はNHKで放送されたのを観たのではないか、と書いているが、この辺りの記憶は曖昧で、というか、今のぼくの記憶ではビデオソフトをけっこう無理して買って、繰り返し観たという感じの方が強い。NHKの放送で知ってビデオソフトを買った、のかもしれない。演劇にあまり興味がなかったのに平田オリザをどのように知ったのか、『演劇入門』を先に読んで興味を持ったのかもしれない…、この辺りのこともはっきりとは覚えていない。)

青年団を撮ったドキュメンタリーである相田和宏の『演劇』も観た。

何が言いたいかというと、四つの公演を映像で観ただけで、平田オリザに詳しいというわけではないが、それなりにハマった時期もあり、本や戯曲も読んでいてまったく知らないというわけでもない、ということ。で、90年代後半の作品と、2012年に上演された『アンドロイド版三人姉妹』とで、基本的なメソッドはほぼ変わっていないのだな、と思ったのだった。90年代の作品のように「同時多発対話」を多用するようなことはなくなったみたいだが。このメソッドについては『演劇入門』にそれなりに詳しく書かれていた。

⚫︎観ながら、「ああ、同じことをずっとやっているのだな」と思い、また「流石にこのやり方は名人芸の域に達しているのだな」と思った。

序盤はあまり良い印象ではなかった。そんなに面白くもない内容を、作劇と演出の名人芸だけで成り立たせているように思われた。しかし続けて観ていくと、次第にゆっくりと引き込まれていった。良い言い方をするならば「時間を贅沢に使っている」。ゆっくりゆっくりと世界が立ち上がり、徐々に充実と緊張が高まって、ある極点に達すると、今度はゆっくりとフェイドアウトするようにおさまっていく。悪い言い方をすると、「立ち上がりが遅くて長っ尻」で、内容的には4、50分くらいでできることを二時間かけてやっている、という感じ。この「ゆっくりゆっくり」立ち上がる感覚は90年代の作品とは違うのだな、と。

⚫︎9人の人間の俳優と、二体のロボットによって成り立つ上演。一体は、いかにも「ロボット」という感じの一般的な廉価版ロボットで、家事労働を担当しているロボットの役。もう一つは、極めて人間に近くつくられたアンドロイドで、三人姉妹の亡くなった末の妹の「代替物」のような役割で家族の一員として存在しているアンドロイドの役。チェーホフの『三人姉妹』の翻案で、未来の寂れた地方都市、ロボット技術の発展に多大な功績があった研究者(亡くなって三年経っている)の家が舞台。家族である三人姉妹とその弟、次女の夫、この家族と親密な関係にあるらしい(こんど海外赴任するという)若い研究者、最近若い妻と結婚したばかりの中年の大学教授、その妻、そして教授の教え子で弟の友人でもある女性。このような人々が集い、これから、若い研究者の送別会が始まる、という設定。

公的ではないが、私的な事情とはいえ複数の関係者が集まる半-公的な場のような送別会という舞台があり(そこは、父の生前には多くの学生たちで賑わった家でもある)、事情のある人々が三々五々集まってきて、最初は皆、無難に社交的に振る舞っているが、ちょっとしたきっかけで齟齬が露呈し、そこから複雑に絡まる関係が見えてきて徐々に緊張が高まっていく。単線的な物語ではなく、複数の問題系が同時並走して絡み合う。まあ、よくあるよね、こういう設定、人物も動かしやすいし、ドラマも作りやすいよね、みたいな。平田オリザのスキルがあれば、こういうのはいくらでもできてしまうのではないか、とか、まずは思ってしまったのだった。

家事労働ロボットはマスコットのような役割だが、人間に近いアンドロイドには「モノ」としても強い異物感があり、設定上も、この「末の妹」は家族の中でも「腫れ物」的な存在という役割を持っているので重なり合うところがある。このアンドロイドは、生前の妹の記憶や思考をトレースした人工知能を持ち(自身がアンドロイドであるという自覚を持ちつつも)家族の中でも対外的にも「末の妹」として自律的に振る舞う。この設定も、うまいといえばうまいが、(理に落ちる、というのか)安易といえば安易だとも言える。ただ、面白いのは、途中でこの末の妹の「本人(人間)」が出てきてしまうところだ。末の妹は「死んだ」ことになっているが、その死について外部の人々には詳細は知らされてなくて、人々も立ち入ったことは聞けないので曖昧に受け入れているのだが、実は末の妹は家族以外の前にはまったく姿を表さずに引きこもってはいるが生きている。これがけっこう早い段階で「観客」に対して開示され。終盤には登場人物たちにも知らされることになる。

このことでアンドロイドの意味は「軽く」なる。彼女は死者の代替物ではなく、たんに引きこもりの末の娘の存在を世間の目から隠すためのヴェールでしかなかった、と。アンドロイドに「死」とのかかわりにおいて過剰な意味を持たせないという態度はとてもいいと思った。ただしこのことは、人前に出られない末の妹のトラウマの「重み」を強調することにはなる。「意味」の軽くなったアンドロイドは、作劇上で「状況の撹乱者」としての役割を持つようになる。彼女は、表に出られない本人(末の妹)の無意識の代弁者のようになって、「その人の前でそのことだけは言っちゃダメ」と、社交するまともな大人なら当然のように配慮・判断することをいちいち「その人」の前で口にしては場を凍らせる(ことを繰り返す)、というキャラになる。アンドロイドだから「空気」が読めないとか、家族も経済的に大変でメンテナンスが十分でないのでバグが出ているみたいとか、そのようなそれらしい理由(言い訳)にかこつけて、アンドロイド自身が「意図的」にそのように振る舞っているかのような、独自のアンドロイド的知性を感じさせるような主体となる。

この部分が、この作品の、ありきたりではない、非凡で面白いところだと思った。