2026/01/31

⚫︎今さらドゥルーズの絵画論でもないだろうという気持ちもあって迷っていた、というか見送っていたがけっきょく買った。

宇野邦一が「訳者あとがき」で次のように書いていて、この本の中身に対する興味が惹起される。

《あえて言うならば、講義の中のドゥルーズは〈図像〉という用語自体よりも、むしろ「いかに力を描くか」という問いに言葉を費やし、ついで「力を描く」ための、言わば手法の問題として「アナロジー」について書き始めている。「アナロジー」とは、いかに相似をあつかうかという問いにつながる。それはまた「デジタル」に対立する「アナログ」を再考することにもつながる。離散的な単位からなる「コード」によって作動するデジタルに対して「アナログ」は「相似」を操作することによって成立する。抽象画家にとっては、むしろ「コード」のほうが中核の問題になってきた。たとえば図形を多用したカンディンスキー、垂直線と水平線に還元されたモンドリアンの絵。》

《しかし絵画とは何かという問いに対して、ドゥルーズはとりわけアナログ言語としての絵画という面を重視している。そしてアナログの三つのあり方を分類している。外部から鋳型によって与えられるもの、内部から「有機的に」成形されるもの(モジュール)、そして連続的変化としての「変調」によるものである。「色彩」を「変調」として扱った画期的な絵画は、誰よりもセザンヌによって創出される。このアナログについての一連の考察は、絵画論にとどまらない、ある記号論的考察に道を開くものと感じられる。》

この「デジタル・コード」と「アナログ・アナロジー」との違いは。パースの記号論における「シンボル」と「イコン」に違いに相当するように思う。そもそも、デジタル・シンボル記号と、アナログ・イコン記号とは併存しているのだから、デジタルからアナログへ、あるいはその逆、ということではないだろう。しかし、アナロジー的な直感的把握が、しばしば軽く見られがちだということがあり、だからアナロジー的把握を強調する必要が出てくる。

たとえば、分析的・コード的な批評だけでなく、アナロジーによる「印象批評」の重要性について。印象批評はしばしば良くないものとみなされるが、我々はそもそも、形態や構造をまず「印象」を通じてアナロジー的・直感的に把握する。もちろん、この「印象」に対して吟味や批判的検討が(「印象」を鍛えることが)必要になるが。そのためにもまず「印象」を的確に掴み、表現するこことは必要になるだろう。

(「印象」が生まれる時にはそれを生み出す媒介となる身体や人格が介在する。だからセザンヌは「自分」を捨てて「良い感光版」にならなければならないと言う。しかし、自分が自分であることこそがより良い感光版であることにつながる、ということもあるのではないか。ここでセザンヌが否定的に言う「自分」とは「自意識」のようなもののことだが。)

⚫︎ただし、『ニューメディアの言語』でレフ・マノビッチも書いているが、アナログにはデジタルを模倣することはできないが、デジタルはアナログをほぼ完璧に模倣できるという非対称性があって、故にアナログはデジタルによって包摂されてしまう。実際、現在のAIは、アナロジー的な直感力において人間よりも優れていると言わざるを得ない。