2026/02/02

⚫︎U-NEXTで『太陽を盗んだ男』。この映画はびっくりするほど「政治的」でない。とにかく「何をしたら良いのかわからない男」の映画だと思う。何かどでかいことをしたい。しかし、その「何か」がわからない。

ゲーム理論の研究者の金子守は「すべての人が核兵器のスイッチを持つ」ことではじめて多様性と平等が実現されるという思考実験を示した。すべての人が平等に「世界を破壊する」だけの力を持つことで力の拮抗 / 均衡が作られ、初めて、すべての「個」が誰一人として蔑ろにされない社会が実現する。しかし、そのような社会は究極的に不安定で一瞬も持続できないだろう。『太陽を盗んだ男』の発想もこれと似ていて、個が、個として自力で原爆を作り、所有することで、「国家」と「個」とが対等の立場に立つことができる。このような映画を、広島出身で被爆二世である映画監督が作る。にもかかわらず、まったく政治的でないことに戸惑うくらいだ。

原爆を自力で完成させ、権利として、個として国家と対等の立場に立つことができた。で、それでどうするのか。この映画には「それでどうするのか」がない。《「それでどうするのか」がない》ということそれ自体が主題であるような映画だろう。

(原爆を完成させた時点で国家と対等になったのだからすでに目的は達しており「何もしなくていい」と考えることもできるはず。)

(金子守の極端な思考実験はアナーキズム的であるが、この映画の場合は、マッチョな力の拡張への希求と / その失調、みたいなニュアンスが強いのかもしれない。)

(主人公から発せられた唯一の「国家」への要求は「プロ野球の試合を最後までテレビ中継しろ」だ。)

長谷川和彦ノンポリで、これは革命の映画ではなく「実存」の映画だろう。その意味で、初期ヴェンダースやアントニオーニに近いかもしれない。主人公が「国家」に対して要求することは特に何もない。「国家」と対等の力を持ったとしたところで「実存」の問題は解決されないことが改めて確認される。「国家権力の犬敵側の刑事)」が、たまたま責任感の強い立派な人で、彼との闘い=交流における充実感が、主人公の空虚を一時的に埋めはするが。

菅原文太=刑事があまりにエグいので「国家権力はえらい」という映画にさえ見えかねない。頭のおかしい兄ちゃんから命懸けで東京を守ろうとしていてエラい、と。)

長谷川和彦ヴェンダースと同世代(ヴェンダースは1945年生まれ、長谷川和彦は1946年生まれ)で、初期ヴェンダース映画のリュディガー・フォーグラーも「どうしたらいいかわからない」ままたださすらう。この映画の主人公もまたどうしたらいいかわからないままであるが、たださすらうのでなく、映画は自爆テロみたいな最悪の結末をむかえる(主人公は「自分の死」と「世界の破滅」を一致させようとする)。

長谷川和彦は『太陽を結んだ男』の結末に納得していなかったのではないかと思った。

(ラスト近くで、プールにプルトニウムを撒く場面があるが、あれは「幻想のシーン」であってほしい。)

⚫︎追記。この映画は原爆を完成させるまでが圧倒的に面白く、そのあと中弛みがくるが、これは「何もすることがない」ことを示す意識的に作られた中弛みだろう。終盤のアクションシーンは、洗練されていない粗いものであるが故に独特の迫力がある。『攻殻機動隊』の、ビルの高層階の部屋を外から窓ガラスを破って攻撃するシーンは、この映画の、沢田研二が警察に押収された原爆を奪還する場面がヒントになっているのだろうか。菅原文太は、見ているだけでタバコこの匂いが香ってくるようだ。昔のおっさんは、ほぼ例外なく近寄るとタバコの匂いがした。この映画は音楽の使い方がカッコ悪いが、原爆を完成させた場面で流れるボブ・マーレーは他と調子が違ってかっこいい。東海村からプルトニウムを盗んだ犯人として逮捕された中核派だという男(真犯人は沢田研二だが)の、テレビニュースで流れる顔写真、あれは若い頃の黒沢清ではないだろうか。

⚫︎さらに追記。子供の頃の遠い記憶だが、「ザ・ベストテン」で沢田研二が、「映画の撮影中」ということで『太陽を盗んだ男』のセットで歌うところが生中継されたのを観た覚えがある。かなり異様なセットだったことで印象に残っていて、今から思うとあれは原発内部を模したセットだったのだと思う。

(検索して調べたところ、それは1979年の6月のことで、曲は「OH ! ギャル」だったらしい。「OH ! ギャル」!!! 。「ギャル」という語をこの曲で初めて知ったし、当時はまだ、今の日本語でいう「ギャル」という意味はなかった。というか、当時はまだ「ギャル」的な人は存在していなかった。)