⚫︎『不気味な笑い フロイトとベルクソン』(ジャン=リュック・ジリボン)。図書館の書棚で見かけてなんとなく借りてきたがわりと面白かった。本文70ページくらいのサラッと書かれた本で、そこまで深掘りされているわけではないが。
タイトル通り、フロイトの「不気味なもの」とベルクソンの滑稽さとしての「笑い」が、同じものの裏表であるということが書かれている。「枠」が機能していれば「笑える」が、機能していないと「不気味なもの」となる。ギャグとホラーは紙一重、みたいなことはよく言われることではあるが。
だが、ベルクソンは「笑い」の社会的側面についても書いていて、そこについてはこの本は触れていない。「笑い」とはまず「愛想笑い」であり「追従笑い」であって、人は「笑い」を通じて集団の不文律や「空気」を教育され、強要される。「笑うところ」の一致や「笑われる者」の共有を「(集団的な)笑う」という行為が教え、強いる。「笑う」ポイントがずれたり、「笑う」ところで笑えなかったりすると仲間はずれにされる。ならば、「不気味なもの」を「枠」と結びつける「笑い」こそ差別の原器ではないか。
孤独な時に人は笑わない、とベルクソンは確か書いていたがそれは本当だろうか。集団的な追従笑いとは違う「孤独な笑い」はありえないだろうか。教室で、だれも笑っていないところで一人笑い声をあげてしまい、「誰ですか笑っているのは、不謹慎ですよ」と注意されるような笑い。この「笑い」は、オレはお前らとは違うんだ、という選民主義的な(あるいは中二病的な)集団に対するアピールであり、その意味では「孤独」なものではない。
(「オレ様はお前らとは違う」というのは「お前ら=集団」を前提にした上で自分を特別視しているので「孤独(自律)」とは違う。)
だが、このような「選民主義」を嫌いすぎることが、今の日本の、世界の「全体主義」的傾向に加担しているようにも思われる。あるいは逆で、「全体主義」的傾向が、人が選民主義的に振る舞うことを許さないという「空気」を作っている、のか。虚仮威しでしかないとしても、もっと「武士はくわねど高楊枝」アピールをしてもいいのではないか(高等遊民としての「寝そべり族」など)。
(「寝そべり族」が「族」である限り、そこには最低限の「共同性」が存在するだろう。それは「寝そべり」というイメージによって代表される何かかもしれない。しかしそれは組織化されるというような性質のものではなく、頑健性にかけ、故に(例えばかつてのヒッピーがそうだったように)「保守的な人たち」によって潰される危険・脆弱性がある。)
⚫︎毒舌が「笑い(共感)」と結びつくとき、それは悪や差別を容認する最低の装置となる。毒舌が共有される集団では、人は(本来ならば「隠されて」いるべき)悪の享楽をおおっぴらに享受することを厭わなくなる。「死の欲動」がエントロピーであるとすればそれをなくすことは不可能で、だから人には「悪の享楽(毒)」が必要であるとするならば(「正しさ」だけでは生きられないとすれば)、それはあくまで「個」として孤独に嗜まれるものでなくてはならず、決して「共有化」されてはならないものだろう。誰にも共有されない、「このわたし」のものでしかない悪の享楽を孤独に享楽する「わたし」に対して、わたしが自己ツッコミを行う時、そこに、誰に向けられたものでもない「孤独な笑い」が笑われる(たちあがる)のではないか。その「自己ツッコミ」と「孤独な笑い」の中に、かろうじて人間としての尊厳があるように思う。
⚫︎「孤独な笑い」が「孤独」なもの(共有化されないもの)であることを認め合う人たちによる共同性、というのはあり得ると思う(「芸術」というのはそういうものだとぼくは思っているが)。
(「共有」と「共有化」は微妙に違って、「共有」は一回的なコミュニケーションが成立することを含むが、「共有化」はそれがある程度固定的に制度化されることだ。)
