2026/02/011

⚫︎フロイトの「不気味なもの」(中山元・訳、光文社古典新訳文庫)を読み返してみた。

フロイトはまず、ドイツ語で「不気味な」を意味する「ウンハイムリッヒ」の反対語である(否定の接頭語「un」をとった)「ハイムリッヒ(親しみのある)」という語が、「ウンハイムリッヒ」と同じ意味で使われることがあるという事実を『現代ドイツ語辞典』から拾い出す。《「親しみのある(ハイムリッヒ)」が「不気味なものウンハイムリッヒ)」になるのだ》。これは「親しみのあるもの(ハイマートリッヒ)」や「家庭的なもの(ホイスリッヒ)」という概念が、「他人の目に触れないもの」「隠されたもの」「内密なもの」という概念を引き寄せ、それがさらに発展して「ハイムリッヒ」に「不気味なもの」という意味が含まれるようになる、とされる。ここでまず、ある語やイメージが当初持っていたものと反対の意味や価値へと反転することがあるという事実が、伏線のように示される。

⚫︎結論から書くと、このテキストは「不気味なもの」の由来を二つ挙げている。一つは、幼い頃に持つ「去勢不安(性器が切り取られるという不安)」が回帰したものとしての不気味なもの、で、もう一つが、未開の時期の人類が持っていた「アニミズム」が回帰したものとしての不気味なもの、だ。これはどちらもメカニズムとしては「抑圧されたものの回帰」であるが、そのあり方が少し違っている。ただしここでフロイトが言う「アニミズム」は、現代の人類学の知見によって明らかにされた「アニミズム」からすると正確とは言えないかもしれない。

一つ目の、去勢不安の回帰としての「不気味なもの」は、ホフマンの小説「沙男」の分析から導かれる。この部分は「沙男」の分析としてはとても面白いが、「不気味なもの」とは「去勢不安の回帰である」と言われても、まあ、そうでしょうね、という感じで、そこまで驚くようなことではない。フロイトの鋭さが発揮されているのは二つ目の由来の導出だ。

ホフマンの別の小説(「悪魔の霊薬」)から、ドッペルゲンガーが取り上げられ、ドッペルゲンガーにかんするオットー・ランクの研究が参照される。ドッペルゲンガーとは通常、「自分の死」の予兆としてある不気味なイメージであろう。しかし、オットー・ランクの研究では《ドッペルゲンガーというのはそもそも、自我の消滅を防ぐための防衛機構であり「死の威力を決然として否認すること」(オットー・ランク)だったのである。どうやら「不死の」霊魂こそが、肉体の最初のドッペルゲンガーだったらしい。肉体が消滅することにたいする防衛として、このような二重化[としての霊魂]が創造されたのであり、夢の言語の中にも、それに対応するものが見出される。夢の言語では、性器のシンボルを二重化し、複数にすることによって、去勢[への防衛]を表現したがるのである》。

ドッペルゲンガーとはそもそも、二重化という防衛機構により生まれたもので、自分を二重化することで死を否認するものであった。しかし、当初にあった意味が反転して自身の死の兆候であるような不吉な(不気味な)イメージとなった。

《これらのさまざまな概念は、限りのない自己愛、原初的なナルシシズムを土台として生まれてきたものであり、こうしたナルシシズムこそが、原始的な社会に住む人々や子供たちの精神生活を支配しているのである。そしてこのナルシシズムの段階が克服された後には、ドッペルゲンガーの前兆としての形も変化して、かつては永続する生を保証するものだったのが、今では死の不気味な前触れとなったのである》。

フロイトは、幼児的なナルシシズムや「アニミズム」の段階にある人類が持つ心性によって生み出されたものが、その段階を脱して成長した自我を持ったものの元へ「再び現れる(回帰する)」時に、それは「不気味なもの」へと変化しているという。もっと抽象化して言えば、かつて親しかったものが、一旦疎遠になり、別の文脈の上で再び現れた時、それは「不気味なもの」となる。だからそれは、(1)親しいが忘れられた(抑圧された)もの、であり、(2)複数回反復されるものである、という特徴を持つ。

そしてその時にこの「反復(回帰)」は、偶発的なものであるはずなのに、そこに何か「意味がある」と(たとえ理性がそれを否定したとしても、「幼児的」「アニミズム的」な心性を抑えきれないという形で)感じられてしまう時に、不気味さが生じる。フロイトはアニミズム的な心性を支配するものとして「思考の万能」という原理を挙げている。たとえば「あんなジジイは死んでしまえばいい」と怒りに任せて口にしてしまった直後に本当にその人が死んでしまったとき、合理的に考えればそこに因果関係などないはずなのに、後ろめたさを感じずにはいられないだろう。それは逆に言えば「そう考えること(思うこと)」それ自体に物事を動かす何かしらの力があるという「アニミズム的」な思考(思考の万能)の残滓が「最も合理的な人」の中にも根強く生きているということだ。そのような心性が、偶発的な反復を意味ありげなものとする、と。

そしてフロイトは書く。

《(…)わたしたちの生活のうちで、すでに投げ捨てられたはずのこうした古い信念の正しさが確証されるように思える出来事を経験すると、不気味なものという感情が生まれるのである》。

《(…)不気味なものという印象が生まれるためには、わたしたちのうちで判断の葛藤が存在している必要があるからである。一度は信じるにたらぬものとして克服された[アニミズム的な]信念が、現実に可能なのではないかという疑いが生まれる必要》があるのだ、と。

フロイトは、このような「合理的な判断」と「アニミズム的(原初ナルシシズム的)な心性の残滓による判断」との間で最も大きなギャップが生じるのが「死」についての判断であるとする。「人は誰も死を免れることはできない」と合理的な人なら誰でも考えるだろう。しかし、「すべての人は死ぬ」ということを心の底から本当に納得している人はいない、とフロイトは書く。このギャップの大きさが、「死にまつわるイメージや記号」に非常に強い「不気味さ」をまとわせることになるのだ、と。

⚫︎フロイトはこの点にかんして非常に面白い実例を挙げている。なんというのか、とても『ペドロ・パラモ』的だ。

《多くの人々がもっとも不気味なものとして恐れているのは、死んだと思われて、生きたまま埋葬されることだろう。そしてこの恐ろしい幻想が、もっと別の幻想が姿を変えたものであること、その幻想とはほんらいまったく恐ろしいものではなく、快感を伴う幻想、すなわち母胎の中でくらしていた頃についての幻想だったことを教えるのは、精神分析だけなのである。》