⚫︎『抹殺ゴスゴッズ』(飛鳥部勝則)。『堕天使拷問刑』は買ったけどまだ読んでいなくて、2025年の(15年ぶりの)新作であるというこちらの方をまず読んだ。
これは、(悪趣味的)怪奇趣味というより懐古趣味なのだなと思った。というか、そもそも怪奇趣味というのは懐古趣味なのだ(ということがこの本を読むとわかる)。現代においてなんとかして懐古的怪奇趣味を成立させようとしている感じだろうか(ただ、いろいろ古いという感じはどうしてもする)。これはぼくの趣味でしかないが、懐古的怪奇趣味を全開に発揮するならば、ミステリという形式よりもファンタジーの方が向いているよなあとも思うのだった。
(この小説は、途中からかなり大きな逸脱的展開になって、全然ミステリじゃないじゃんと思っていると、意外にもミステリとしてきちんと収束して、しかも多重推理的なかなり高度な収束なので驚くのだが、ただもう一方で、この物語に「合理的解決」が必要なのだろうか、とも思ってしまう。なにも「ゴスゴッズ」まで合理化しなくても…、と思うが、ミステリという体裁である限り「合理的に説明できないもの(超自然的存在)」を残しておくわけにはいかなくなってしまう。ただし、「ゴスゴッズ」を合理的に説明するために「木槍聖夜」という人物を人間離れした存在にする必要が出てしまう。)
(令和篇と平成篇からなるこの小説で、ミステリなのは密室殺人が起こる平成篇で、令和篇は「謎解き」はあるとしてもどちらかというと怪奇バイオレンス小説という感じだ。とはいえ、令和篇があることで、ミステリとして、多重解決というか、もう一段「奥」にある真相を作れるのだが。)
懐古・怪奇趣味のファンタジーとしてここでぼくが想起しているのは稲生平太郎の『アクアリウムの夜』や『アムネジア』なのだが。たとえば天沢退二郎のファンタジーは、登場人物が小学生であることで成り立っているようなところがあるが、その年齢を高校生くらいまで押し上げると、暴力的な要素やビターでダークで危ない(反倫理的)感覚の要素をもっと強く押し出せるようになって、それが『アクアリウムの夜』ではないか、と。
でも、懐古・怪奇趣味的なものをファンタジーとして形にすると、一部の好事家しか読まない、知る人ぞ知るマイナーな小説(つまり『アクアリウムの夜』や『アムネジア』のような)になってしまいかねないので、ミステリとすることで読者の裾野は広がるのだろう。
(なんというのか、これだけ「酷い」ことをやるだけやりまくっているのに、最後はしれっと、うるっとくる感じで綺麗に終わるというのはちょっとズルくないか、と思わないでもない。「西郷寺桜」がそんなにいい人なわけないだろ、と。終わりが綺麗だとあたかも「いい話」だったかのように錯覚してしまうが、そんなことはなく、とても「酷い」話だ。ただ「(読後感が良いように)綺麗に終わらせる」というのも、読者の裾野を広げるためには重要なことなのかもしれないと思った。)
(終盤になってから登場する、令和篇の実質「探偵」役と言えるだろう「妹尾悠二」という人物の登場の仕方が面白い。こんなふうに登場する探偵は他にいないのではないか。)
⚫︎基本的世界観として、すべてが合理的に説明出来る「ミステリ」世界であるという体裁をとることによって、悪趣味的(アンモラル的)怪奇趣味的な世界像が、(「謎」が解かれてしまうことで)すでに失われた子供時代の妄想(フィクション)として相対化され、その相対化によって逆に(「現実」から切り離された)怪奇趣味がノスタルジーの対象としての「貴重な宝」となる、という側面はあるかもしれない。
(追記。ラストがやけに清々しい感じなのは、大変なイニシエーションを潜り抜けてもうすっかり「怪奇趣味」からは卒業しました、みたいな感じになっているからだろう。でも、「令和篇」にしっかり書かれているように「父」は決して「卒業」などできなかったわけで、そんなに綺麗に終われるはずないよね、と思う。)