2026/02/28

⚫︎五十嵐耕平『豆腐の家』(「恋につきもの」所収)をDVDで。40分程度の短編でオムニバスの一本。ツタヤディスカスで借りた。これはいまひとつかなあ、と。雰囲気はいいけどお話が面白くないという感じ。

登場人物の「白い絹子」について。まず、長い黒髪に純白のワンピースの女性という時点でこの人はあからさまに「幽霊(正確には「分身」だが同じようなものだ)」でしかあり得ない。つまり、幽霊(≒分身)の表象として紋切り型でしかない。(同じ純白ワンピースの)「あの花」のメンマならば、幽霊らしからぬキャラによってギリギリ紋切り型を逃れているが、そういう工夫もない。また、この「白い絹子」は、メンヘラの表象としても紋切り型でしかないように見える(「メンヘラ」という語はあまり使うべきではない不適切な語だと思っているが、わかりやすいので使ってしまうが…)。紋切り型というのは「偏見」の像でもある。

また、(男性が演じる)主人公は、父からの虐待によるトラウマから、自身の女性性を抑圧し、男性という自認(しかも自分を虐待した「父の名」を名乗っている)で生活し、抑圧した自分自身である「(分身の)白い絹子」と、夫婦であるという幻想の中で共に暮らしている(ここで主人公が「トランス男性」とは在り方が異なっていることには注意されたい)。映画は、この主人公を男性が演じていることで、映像による叙述トリックを採用したナラティブにより進行する。主人公は途中で、幽霊≒分身である「白い絹子」からの手紙(実質的には主人公の無意識から届いた手紙だが)を受け取ることで、この事実を思い出す(自分こそが「絹子」であると認識させられる)。ここから主人公を女性が演じることになり、観客はこれまでのちょっとした違和感(主人公が職場の同僚に「妻が待っているので」と言って飲み会を断ると、同僚は「妻…? 」と怪訝そうな顔をする、など)の意味を納得する。

で、このような叙述トリック的な映画の語りの構造は、「トラウマ」を扱った作品としてはもはやありふれている、とぼくは思う(2014年の映画だが、その時点ですでにありふれていた)。

つまり、幽霊≒分身の表象としても、メンヘラの表象としても紋切り型であり、トラウマを扱った映画の語りの構造としてもありふれている。だから、お話としては面白くない。

ただし、五十嵐耕平独自の筆致が魅力的であり、とても「いい感じ」の映画であることもまた事実だ。主人公が「白い絹子」と歌うカラオケの場面や、同じ構図で二度繰り返される風景ショットや、ラストの長回しなどはとても素晴らしいと思った(カラオケの場面は、たんに「曲がいい」だけかもしれないが)。だからすごく「惜しい」。

もうちょっと詰めて考えればいい作品になったと思うけどなあ、という感じだった。