⚫︎『墓地裏の家』(倉野憲比古)を読んだ。以下、ネタバレしているので注意。
濃厚なゴシック趣味と衒学趣味によって彩られた背景世界(設定)が分厚く積み上げられるが、それに対して、起きる事件も小粒だし、トリックも小粒な感じで、ミステリ要素が脆弱に思えてしまうことは否定できないだろうと思う。この小説には三つの解釈があり得る、というより、三つの異なる世界観が重ねられている。(1)この世界は合理的世界であり、密室殺人には合理的トリックがあり、動機を持つ犯人が殺人を主体的に行った。(2)この世界はオカルト的世界であり、犯人は、黒幕的な人物からオカルト的な方法によって支配され、操られて犯行を行なった。(3)あらゆる出来事の間に因果関係はなく、偶然の重なりであり、亡くなった3人はすべて自らの意思で命を絶った(因果関係は観測者による恣意的な「解釈」に過ぎない)。
(この作品全体が醸し出す「ゴシック的雰囲気」が、三つの世界観の共存に一定程度の説得力を与える。)
ただし、このような多義的解釈そのものはそんなに斬新ということはない。この小説の野心はおそらく、(1)の世界観において、事件を目撃し推理しようとする探偵役自身が、意図せずに一種の「信頼できない語り手」として振る舞ってしまうという点にあると思われる。探偵役の人物は、自分の目撃証言(目撃体験)が、認知バイアスによって歪められ、書き換えられた「嘘の証言」であった(可能性がある)ということを、自分自身で発見する。彼は、知覚の不確実性と認知バイアスにかんする科学的な知見を、自分自身の体験について用いて分析し、自分にとっての「リアルな体験(リアルな感覚)」への不審を抱き、その「間違った可能性」を吟味することを通じて「事件の真相」に到達する。ただしここで「事件の真相」とは、そう考えればすべての辻褄が合うという「仮説」段階でしかなく、証拠が何もないだけでなく、犯人からの自白すら得られていない(自白以前に「犯人とされた」人物が亡くなってしまう)。
第一の事件において、(「犯人とされる」人物を除いては)探偵役の人物が唯一の目撃者であり、作中の警察も、その外にある読者も、とりあえず自然にそれを「事実」と取る。この小説が三人称で描かれているので尚更だ(ただし、実質的には探偵役の一視点なので一人称とあまり変わらない)。いわゆる叙述トリックとも異なるこのようなトリックは、「本格」のルールからすればアンフェアだということになるだろう。
だが、この作品において、このことは「トリック」というよりは、世界の根本を支える基盤の瓦解(解釈と事実の乖離)としてある。探偵役であり、衒学的で、論理的に思考する(客観性が高いように思われる)この人物でさえ、体験のレベルでは、自分自身に対して嘘をつく。そもそも、論理を組み立てるための前提となる「事実」の部分で信頼が置けない。そのことを自分自身が認める(気づく)。ここでは、自分が自分に対して嘘をつき、自分が自分についた嘘を、自分で告発する。だが、これは彼一人の中でぐるぐる回っていることで、その「ぐるぐる回転」を止揚する外部性がない。彼は、自分は(A)人が血まみれで倒れているのを見た、と思ったが、実は(B)ただ人が倒れているのを見ただけで血など見ていなかった、という可能性が高いと推論する。しかし、(A)が「信頼できない」のならば(B)も「根拠がない」のではないか。どうやら(A)は信頼できず、(B)と考えた方が辻褄が合うのだが、しかしだからといって(B)であることの信頼性を支える外的証拠はない。
ああとも言えるし、こうとも言えるという、いくつもあり得る恣意的な仮説の中で、最ももっともらしい(辻褄のあう)仮説として、彼自身の衒学的知識アーカイブの中から「認知バイアス」にかんする知見が呼び出され、自分自身に対して適応される。だが、彼自身の「知覚」が嘘である可能性があるのなら、彼の彼自身にかんする分析・解釈も嘘(あるいは間違い)かもしれない。(A)知覚と(B)分析・解釈のどちらに信憑性があるのかは、外的根拠と照らし合わせなければ決定できない。しかしその外的根拠であるはずの「犯人とされる人物」は亡くなってしまい、物的証拠となり得るお屋敷も火事で消失してしまう。ゆえに、彼の中では(A)と(B)とがぐるぐる回り続け、その回転は止められない(「事実」への着地ができない)。