⚫︎ツタヤティスカスで借りたDVDで『月の砂漠』(青山真治)を観る。ぼくはこの映画を、2001年6月20日のフランス映画祭で観た。おそらくこの時がこの映画の(試写を除いた)完成品初披露の時だったと思う。高く評価された『ユリイカ』の次で期待される作品だが、上映が終わった後の空気が微妙な感じだったのを憶えている。そして観るのはそれから25年ぶりだと思う(もしかすると途中で一回くらいはソフトで観ているかもしれない)。
まず、あ、これスタンダードサイズだったんだ、と思った。ついで、冒頭でビーチボーイズの「Caroline, No」が流れてすごくいい感じなのだが(この曲を使えばいい感じになるに決まっているのだが)、この曲を使うために一体いくらかかったのだろうかと下世話なことを思ってしまった。そして、もしかしたらこの曲を使ったせいで配信にのせられないのだろうか、とも思った。
思っていたよりも面白く観られた。『ユリイカ』と同じことを繰り返すのだけはぜったいに避けるという強い意志を感じた。ただ、脚本の練り込みが甘いのではないかと素朴に感じはした。え、それで終わりなの、と感じたし、柏原収史が演じる人物があまりに中途半端なまま放り出されて終わるので、(彼はあくまで媒介的な人物ではあるにしても)もうちょっとこの人を大切にしてあげてよ、と思った。
基本的なお話はとても単純だと思う。(1)仕事にかまけて家族を顧みなかった夫が妻と娘に捨てられる。(2)夫は実は仕事もうまくいっていなくて一緒に会社を立ち上げた親友二人にも裏切られる。夫はまったく孤立する。(3)夫に顧みられない妻もまた孤独で、アルコールに溺れ幻覚を見るまでになる。(4)妻は、今はもう誰も住んでいない(ぽつんと一軒家的な)実家に戻って娘と二人だけで暮らして生活を立て直そうと決意する。この、夫と妻(と娘)の関係に、金持ち相手に体を売って生きている破滅的なホームレスの青年が媒介的な役割を演じる。(5)青年に無理やりに(東京での仕事から切断されるように)妻の実家に連れてこられた夫は、一晩妻と語り合って関係が良い方向に傾くが、「母と二人で生きる」覚悟を決めた娘は二人の関係改善を母の裏切りのように感じる。しかし最後には、(6)自分の身を挺して妻と娘を守ろうとしたことで夫(父)は娘からも受け入れられ、家族は再統合される。
(夫とホームレスの青年との関係は、代理的な「父殺し」とその失調という主題によって結び付けられている。)
そしてこの映画の元ネタというか、出発点にエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』があるのは明らかだと思う。共通点として、(1)夫(父)は当時最先端だったIT関連の会社を友人たちと共同で立ち上げた経営者であり、会社は成功してお金持ちである。(2)夫(父)は、表面的には順風満帆の成功者だが、実は会社は危機的な状況にあり、家族も大きな問題を抱えている(夫と、共に会社を立ち上げた友人たちとの関係も壊滅的だ)。そして、(3)そんなところに媒介者があらわれて状況が動く。「ヤンヤン」の媒介者は天使的なイッセー尾形だが、『月の砂漠』の媒介者は破滅的な青年・柏原収史だ。二つの映画は、出発点に共通するところが多いがそこからべつの方向へと動いていく。「ヤンヤン」の構造はとても複雑であるが、『月の砂漠』のお話(主題)はシンプルかつありふれている。
「ヤンヤン」が構造的な複雑さを持った語りであるのに対し、『月の砂漠』がやろうとしていることは、シンプルな話を「混濁した」形で語ることなのではないかと思った。複雑な語りではなく混濁した語り。同様の試みが、(やや異なる形ではあるが)『サッドバケイション』でもなされていると思う。語られる話は、ありきたりという言い方が悪ければ、古典的な主題性を持っている。だけど、古典的な主題を語ろうとすると現代では混濁した形にならざるを得ない。そのような問題意識があったように思われる。混濁した語りだから、綺麗には終われない。『月の砂漠』のラストでの唐突な(母と娘の)「笑い」、『サッドバケイション』のラストのナンセンスな「シャボン玉の破裂」。どちらにしても、いきなり突飛なものを持ち出してその驚きと違和感で誤魔化して強引に終わらせている、ように感じられる。途中のままで投げ出される感じ(意識的にそうなっているのだろう)。
『ユリイカ』や『共喰い』を観れば明らかだが、青山は古典的で端正な映画を高い完成度で作る力のある作家だろう。しかし一方で、それに飽き足らず、さまざまな形として現れる(ある意味で方向かほ定まらないような)試み・企みを持った作品を多く作っている。この引き裂かれた感じが現代作家であることの証だろう。ただ、ここにあらわれている混濁は、ノイズを作ろうとして作られたノイズのようであると感じられてしまこともある。
(柏原収史の分身的相棒である細山田隆人が父・夏八木勲を殺す場面はとてもかっこ良かった。あと、とよた真帆の実家の、あの建物それ自体が素晴らしい。もっとあの家の空間を生かす場面があって欲しいと思ってしまう。)
⚫︎とよた真帆の見る老夫婦の幻覚は何なのだろうか、という疑問は最後まで残った。最初は『マルホランド・ドライブ』そのまんまのバクリみたいに見えて、とよた真帆の状態がヤバいということを表す幻覚とも思ったが、そのうち、この像は彼女にとっての「家」という概念と結びついているらしいことがわかってくる。しかしそれがとよた真帆の両親ということなのか、それとも、概念としての老夫婦(つまり、自分たち夫婦が未来においてあるべき、あるいはあるべきだったとイメージされている像)なのかがよくわからない。いや、どちらも違って、もっと他者性のつよい、馴染みのない感じのイメージなので、外から強迫的に与えられる社会的理念としての夫婦像、みたいな感じか。
⚫︎追記。『月の砂漠』を観て思ったのだが、青山真治と黒沢清は資質としてまったく正反対のように異なっている。黒沢清にとって、あらゆる出来事は個別に起こり、物語に見えるのはそれらがたまたま重なって見えるか、あるいは連鎖しているとしても玉突き事故的に連鎖しているに過ぎない(ある時期以降は必ずしもそうではないが、基本としてはそうだ)。玉突き事故は物理的な連鎖であって、意味的な連鎖、あるいは物語的な展開ではない。対して青山真治は、あらゆる事柄を過剰なまでに関係づけ(意味づけ)ようとする。『月の砂漠』で、三上博(夫)と柏原収史が出会うのも、とよた真帆(妻)と柏原収史とが出会うのも、「そんな偶然ある ?」というようなご都合主義的偶然で、それによって柏原が夫婦にとって重要な媒介的人物となる。つまり、あらゆる偶然が、物語上の必然(というか関係における必要性)によって、あるいは「意味」によって、強いられた偶発性として、偶然が起こさせられている。
偶発的な出会いによって意味が生じるのではなく、あらかじめ「意味」によって要請された「偶然」が、因果の逆流によって強引に「起こさせられる」。
(三上と柏原の出会いか、あるいはとよたと柏原の出会いの、どちらか一方の「偶然」だけならば、慣習的な物語的常識の範囲内であり、多くの人はそれほど違和感を持たないだろうが、二つの偶然が偶然に重なる、となると、それは「ご都合主義的」だと感じられてしまう。ただし、この感じ方そのものが、物語消費における慣習・常識に過ぎないので、そのような慣習・常識に対する批評的態度として、あえてご都合主義的であるということはあり得る。)
(いや、本当に「物語消費における慣習・常識」なのか。「一つの偶然」に比べて「二つの偶然が偶然に重なる」ことは確率的に極めて極めて希少なことなので、そういうことが起こった場合は「第三者による意図的介入」をまずは疑う、というのは、物語というより、我々にとっての「通常の現実」を構成する常識というべきだろう。)
(たとえば、とよたと偶然出会った柏原が、とよたに興味を持って彼女について調べて、夫・三上の存在を知り、彼にアプローチする、という形で媒介者になるのなら物語的に自然な流れだが、それが面白いかどうかはまったく別の話だ。)