2026/06/28

⚫︎YouTubeにおそらく未許可でアップされている昭和のテレビドラマをなんとなく観ていた。大学生の娘が友人に電話していて(固定の黒電話だ)、その後ろで母親が「今、会って帰ったきたばかりで、なにをそんな話すことがあるの」と言って怒っている(この娘役の俳優は今では70歳に近い)。まさに昭和ドラマの紋切り型シーンだが、それで、ああ「長電話」というコミュニケーションの形態は、今はもうないのだなあ、と思った。

今から考えると自分でも意外なのだが、(普通に考えればかなり孤独だったと言える)ぼくの二十歳代後半は「長電話」によって支えられていたという側面がある。当時、長電話に付き合ってくれる友人が二人いた。一人は小学校から高校までたまたまずっと同じ学校だった友人。もう一人は、大学時代の友人。どちらとも、実際に会うことは年に一度あるかないかくらいだったが、だいたい二ヶ月に一度くらいの感じで(二人とも普通に働いているので頻繁には付き合わせられない)、深夜から数時間「長電話」をしていた。どんな話をしていたかまったく覚えていないし、おそらく沈黙の時間がかなり長かったとも思う。

(今でも長時間通話する人はいるかもしれないが、「長電話」という語の感覚は「固定電話」と結びついたものだ。しかも「深夜」の長電話には特有の質感があった。)

(インターネット初期には多くの人がテレホーダイによってネットにアクセスしたが、テレホーダイとはそもそも、深夜の長電話のためのものではなかっただろうか。)

恋人同士みたいな密な関係の人が少しでも長く繋がっていたいみたいな濃いものとは違って、もっと、遠くて、弱くて、スカスカで、だらっと緩んだ繋がり。

でも、電話の相手が結婚したりすると、さすがに「深夜の長電話」は遠慮せざるを得なくなる。おそらく30歳代はじめくらいにはこの習慣はなくなった。

(まあ、でも、今もVECTIONで、毎週4時間くらい、リモートで、会議という名の雑談をしているので、あんまり変わらないとも言えるのかも。)

⚫︎コロナの時期にあった「リモート飲み会」みたいなものが、長電話の感覚とちょっと近いものがある気がする。リモート飲み会をやったことがないが。

(ただ、長電話はあくまで一対一だという点が違って、これはなにげに大きな違いかもしれない。)

⚫︎昔、高橋悠治と坂本龍一の『長電話』という本があった。二人が、ホテルの別々の部屋で、それぞれベッドに寝っ転がった状態で電話で話しているのを録音して本にしたもの、だったと思う。同じホテルに滞在しているのだが、対面せずに、あえて「電話」で話す(このコンセプトを成立させる「感覚」は、電話というものが「部屋」に備え付けられたものである、という前提があることで成り立っている)。特に面白い何かが話されているわけではなかったが、「長電話」なのだから、初めから、無理に面白くしなくても良い、というのが前提だ。

⚫︎書いていて思い出したが、固定電話時代の電話は「部屋」の空間と一体となっているというのが重要だったのだなあと思う。電話は、部屋の中にあり、部屋の特定の場所にある。自分の部屋から、どこかの誰かの部屋へ、「声」だけが繋がっている。