2026/07/03

⚫︎『ドグラ・マグラ』(松本俊夫)を久々に観た。あの原作をよくぞここまでシンプルかつわかりやすくまとめたものだ、という映画で、フィクションにおける再帰的、自己言及的な入れ子構造・ループ構造はこうやって作るのだ、というお手本のような映画でもある。ゆえに、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』やデヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』のような迷宮感はあまりなくて、ああ、そういう構造になっているのね、という納得感とともに観終わる感じ。因果的にも、構造的にも、ミステリとしてきちんと謎が解かれて終わる。

(映画というメディアの性質上、「私」と「呉一郎」が明らかに「(同一人物としか思えない)同じ見た目」であるこが最初からわかってしまうのだが、それがただのネタバレではなく、そのことによってさらに謎が深まるという、映画ならではの独自の構造になっていると思う。同じ見た目(同じ俳優が演じている)からといって同一人物とは限らない、というのは、古典的とも言っていい映画的な主題だ。)

改めて思ったのは、桂枝雀の存在の重要性だ。お話の性質上、どうしても「説明セリフ」が多くなってしまうのだが(この映画は「言葉で説明される」要素が強い映画だと思う)、桂枝雀の「(演技というより)話芸」によって、「説明がすんなりとわかりやすく頭に入ってくる」、と同時に「説明が、たんなる「説明」に聞こえない独自のニュアンスを持つ」ということが実現されていると思う。映画を観ていても「なんか説明ばっかりだな」とは思わない。それと、キャラが立っているということも勿論あるし、若林博士役の室田日出男の、ぬっと大きくてぼそぼそっとした感じとの対比も面白い。

この映画が作られた1988年は日本に最もお金があった時代で、そのためなのか、このようなマイナーな映画にしては、ある程度「しっかりとお金をかけて作られている」感じがある。

(ぼくの記憶では、主演の松田洋治は80年代にはテレビによく出ている売れっ子の「子役」だったと思うのだが、そういう人がどういう経緯でこういう映画に出ることになったのだろうか、というのが当時から不思議だった。)

⚫︎一部で、「ツインピークス」を思わせるような演出・カット割りがあったが、この映画は「ツインピークス」よりも前に作られている。