2026/07/26

⚫︎寺山修司の最晩年の作品に『寺山修司&谷川俊太郎ビデオ・レター』(1983年)というのがある。谷川俊太郎とのビデオによる往復書簡あるいは交換日記で、これは寺山の死まで続けられる。80年代前半は、まだまだ高価とはいえ一般の人にも手が出せる価格で民生用のビデオカメラが発売された頃で、人類史上初めて、プロではない人が気軽に日常的な映像を撮影できるようになった時期だろう。それ以前にもスーパー8などの8ミリはあったが、8ミリは、プロではないが一般の人というわけでもない、いわば「マニア」のためのものだったろう。ただし、この作品は民生用のビデオカメラではなく、もっと物々しい、半プロとしてのマニア、あるいは(大資本を背後に持たない)アーティストが使うようなちょっと高価めの機材で撮られているようだ。それでもやはり、8ミリや16ミリのフィルムで撮られるのとは明らかに異なる、ビデオならではのプライベート感がある。

当時、「イメージフォーラム」(雑誌の名前です)を読んでいたのでリアルタイムでこの作品の存在を知ってはいたが観たことはなかった。そういうものに今になってウェブで出会うというのは、まあ、よくあることだ。

作品は谷川のパートから始まる。古いスライドが映し出され、そこにはおそらく二十代前半だと思われる寺山修司と武満徹が写っている。面影はあるがただの若者にしか見えない寺山と武満を見て、この二人にも「普通の若い男性」であった時代があったのだなあと思う。谷川は、朝日新聞に掲載された寺山の新作の詩を誉めながらも「言葉で言うとかっこよすぎる気がする」というようなことを言う。それに対する寺山の返答は強烈なものだ。「谷川さんは、言葉にするとなんでもカッコよくなってしまうと言うけど、言葉にでもしないと耐えきれないっていうことも時々ある」と言い、病気のためなのか、治療のためなのか、赤く爛れた自分の肌を、うなじ、あし、背中、の順番で映像で示して、そこにそれぞれ「言葉」「言葉」「言葉」とナレーションを重ねる。これはとても重たいパンチだ。この作品は寺山の死によって途切れ、完結した。9月10日と日付がつけられたこの日の映像の、わずか七ヶ月後に寺山は亡くなっている。この作品の寺山のパートには、遠くない時期に自分の死が訪れるであろうという強い予感に満ちている。

この作品の、少なくとも最初のいくつかのターンはとても緊迫している。寺山は、自身の死が直前に迫っているという切迫した重たい気配を、谷川に対して押し付けるかのように語りかける。対して谷川は、友人にのしかかる死の予感の重さを、少しでも軽くして返そうと努力しているように見える。しかし寺山は、お前ぬるいこと言ってんなよ、と喧嘩腰であるかのように強めに返しているように感じられた(もちろん、口調は穏やかだが)。正直ぼくも、寺山の示すリアルな死の予感に対して、谷川の「返答」はあまりに軽過ぎるように感じられた。ただ、自分が谷川の立場にあったらと想像すると、親しい友人が自分の死への予感を喰ってかかるように強く押し付けてくる時に、一体どのように返したらよいのかと考えると、こうする以外になかったのかなあとも思う。

この作品で谷川は主に、唯一の存在であるはずの「このわたし」のことをすべての人が等しく「わたし」と呼ぶ、というような、《決して一般化されない「わたし」の一般形式》のようなものについて問うているように思われる。あるいは言語ゲームとしての「わたし」について。つまりそれは「言葉」としての「わたし」の運用の問題だ。しかし寺山が問題にしているのは「もうすぐに死ぬこのわたし」であろう。「死んじゃうわたし」は「このわたし」でしかないのだから「わたしとは誰なのか ? 」みたいなことが問題ではない、と。

(ただし、議論の当初は、寺山の方が「言葉」に強くこだわっていて、谷川は、世界は「言葉」とか「意味」だけじゃないよね、と繰り返し主張している。それでも寺山は、「死んじゃうこのわたし」には「言葉」や「意味」がないと耐えられないんだ、という感じでまったく譲らず、それに折れるような感じで谷川も、「意味」とか「わたし」とかについて語り始めるのだが、そこでも前述のように食い違う。)

(「意味」とか「無意味」とかそんなことばかり言ってると「意味ありげ」に陥っちゃうよ、と谷川が言うと、寺山は、生きているということはまさに「意味ありげ」だということだと思います、と返す、このズレたガチバトル。)

だから二人の対話は噛み合っていない。しかしこれは仕方がない。寺山より四つ年上の谷川は当時まだ50歳代はじめくらいで、とても元気そうに見える彼にとって死はまだ遠く、それほど切迫した問題ではない。そうであるのに、寺山の抱える「死の重さ」に同調するかのように振る舞ったとしたら、それは嘘でしかない。寺山にしても、噛み合わないだろうということははじめからわかっていたのではないか。それでも、自分の存在を、自分に訪れるであろう死への予感の重さを「表出」するために、語りの届け先として(「喧嘩腰」に「甘えられる」相手として)「谷川さん」が必要だったのではないかと思った。

⚫︎最も印象に残ったのは、9月26日という日付を持つ谷川のパート。ここで谷川は「うちの犬を紹介します」と言い、ついで二匹の柴犬が谷川の家の庭と思われる場所にいる映像が示される。庭があり、犬が二匹いて、光が射し、植物が揺れている。虫の声、鳥の声、子供の声が聞こえ、マイクに風があたるボーボーいう音が聞こえる。ここで9月26日とは、1982年の9月26日だ。この映像で示されるのはとてもありふれた光景だ。「突出したショット」などではまったくない。このような光景は、1982年の東京だけでなく、もっと以前にもありふれたものとしてあっただろうし、2026年の現在でも、おそらく未来にも、どこにでもあるだろう。小さく囲われた空間があって、犬がいて、土があって草が生えていて、陽射しが強くて、鳥や虫や子供の声がする。いつでも、どこでも、世界の数多くの時空に、このような光景がある。このような光景こそが、(谷川が繰り返し寺山に示そうとして、示しきれなかった)言葉でも意味でも(無意味でも)ないなにものかで、死を前にした寺山に対しての、かろうじての返答たりえたものではないかと思った。